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水不足に困り整えた“千鳥ヶ淵”...徳川家康は荒野・江戸をどう変えたのか?

鈴木理生(歴史学者),鈴木浩三(経済史家)

2023年08月10日 公開

 

水不足で貯水池を整備

道三堀の開削、製塩地・行徳までの沿海運河、最小限の江戸城修築工事とともに、江戸入りした家康が真っ先に手をつけたのが飲料水の確保だった。

もともと江戸は、武蔵野台地と汐入の低湿地に囲まれた場所であるため、まとまった量の良質な水を得るのがむずかしい土地だった。そのような場所に駿河・三河などから約30万人の家臣団が移ってきて、江戸の人口は急増した。

そのため、はじめから飲料水が不足していた。したがって、すべての家臣を江戸に住まわせたのではなく、主な家臣は小田原北条氏の支城などを活用して関東各地の要所に配置し、新たな領国の経営と防備の万全をはかった。

小身の(俸禄が少ない)家来は、主に江戸城の西側に住まわせた。城から武蔵野台地に続く場所を旗本で固める必要があったことと、台地の上なら良質な井戸水が得られたからでもあった。

そうした中で家康は、家臣の大久保主水(もんと)に水源の見立てを命じ、自然河川である小石川が利用されるようになった。それが後年、神田上水に発展している。

一方、文禄元(1592)年頃から、江戸城修築工事と並行して、飲料用の貯水池である千鳥ヶ淵(ちどりがふち)牛ヶ淵(うしがふち)が整備された。

 

自然地形を活かして飲料水を確保

千鳥ヶ淵 牛ヶ淵

この「淵」という言葉はダム湖を意味していた。

現在、桜の名所になっている千鳥ヶ淵は、坂下門付近で日比谷入江に流れ込んでいた旧・千鳥ヶ淵川の谷を、国立近代美術館工芸館の前で堰き止めてつくられた人造湖である。

なお、この谷筋は、本丸(現・皇居東御苑など)と西の丸(皇居)を隔てている。

牛ヶ淵は、武蔵野台地の東縁から湧き出る水を貯水したものである。北の丸公園にある清水門の石垣を急な階段で登ると、上流側の牛ヶ淵の水位が下流側の清水濠(しみずぼり)よりも高くなっているなどダムの痕跡が見られる。

まとまった雨が降ると牛ヶ淵から清水濠に"滝"のように水が落ちる光景も目にできる。

これらの水源確保では、湧水の活用や谷筋の利用など、自然地形が最大限に活かされた。それが短期間に最低限のコストで飲料水を確保する手段だった。

とはいえ、家来たちの苦労は並大抵ではなかった。この時期の工事は、徳川氏の直営で行われたからだ。

家来たちは城の整備に駆り出され、宅地や水さえ自分で確保しなければならない境遇に置かれていたのだ。

たとえば当時の江戸城の普請(ふしん)現場を描いた『聞見集』(万治3〈1660〉年に成立)では、

「大雨の日は、掘り上げた土砂が完成した堀に流れ込むため、夜を徹してそれを堰き止めたり、溜まった水を何度も釣瓶(つるべ)でかい出した」「侍たちも中間(ちゅうげん)同様に鍬(くわ)やモッコを持って土木作業に従事した」といった内容が記されており、「辛労筆に盡(つく)しかたく候」という状況であった。

 

【鈴木理生(すずき・まさお)】
1926-2015年。都市史研究家。
地形学・考古学の視点から実証的に都市史をとらえ直し、都市の形成と変遷、流通、交通体系などを多角的に論じている。
著書に『江戸はこうして造られた』『江戸の町は骨だらけ』(ちくま学芸文庫)、『江戸の橋』(三省堂)、『江戸の川・東京の川』(井上書院)、『お世継ぎのつくり方』(筑摩書房)など。
編著書に『東京の地理がわかる事典』(日本実業出版社)、『図説江戸・東京の川と水辺の事典』(柏書房)などがある。

【鈴木浩三(すずき・こうぞう)】
1960年東京生まれ。経済史家。
中央大学法学部卒。筑波大学大学院ビジネス科学研究科企業科学専攻修了。博士(経営学)。主に経済・経営の視点から近世を研究している。
2007年に日本管理会計学会「論文賞」を受賞。
著書に、『江戸の風評被害』『江戸の都市力』『地形で見る江戸・東京発展史』(以上、 筑摩書房)、『資本主義は江戸で生まれた』『江戸のお金の物語』『江戸商人の経営戦略』『パンデミックvs.江戸幕府』(以上、日本経済新聞出版本部)、『江戸・東京の「地形と経済」のしくみ』(日本実業出版社)などがある。

 

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