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楠木正成 「痛快無比の英雄」の魅力

2012年09月21日 公開

童門冬二 (作家)

≪『歴史街道』2012年10月号より≫

楠木正成

没後間もない時期に書かれた『太平記』や『梅松論』ですでに智略あふれる英雄として描かれ、戦国時代には、あの竹中半兵衛が「昔楠木、今竹中」と評され、江戸時代には講談などで庶民のヒーローとなり、さらに幕末の志士が敬慕した武将、楠木正成。
その天才的な軍略と、節を守る侠気あふれる生き方は、時代を超えて、なぜ多くの日本人を魅了するのか。

 

日本人が長きにわたり憧れを寄せた「英雄」

 楠木正成 ―― 最近でこそ、その名前を聞く機会が減っていますが、かつて、多くの日本人が憧れた英雄中の英雄でした。私が子供の頃、「好きな人物は誰か?」を世間一般に問えば、必ず「楠木正成」の名が上位に挙げられたものです。

 楠木正成は鎌倉時代の末期から、後醍醐天皇による建武の新政が行なわれた数年間、これ以上ないほどの輝きを放った人物です。鎌倉幕府打倒の兵を挙げた後醍醐天皇にいち早く呼応し、自らの地盤である南河内の赤坂城や千早城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に立て籠もります。そして攻め寄せた幕府方の大軍に、山城の上から岩や丸太を落としたり、熱湯をかけたりと、それまでの戦いの常識を覆す智略の限りを尽くして、わずかな兵で数万以上の敵を翻弄。城を見事に守り抜いて倒幕への気運を一気に高め、時代のヒーローの座へと駆け上りました。

 倒幕が成って建武の新政が行なわれると、その混乱ぶりに多くの武士が愛想を尽かし、実力者である足利尊氏になびいていきますが、楠木正成は掌を返すことはせず、あくまで「節」を守ります。そして叛旗を翻して京に攻め上った足利尊氏率いる大軍を、一度は追い落とすことに成功するのです。しかし、時の勢いはなお、足利尊氏の側にありました。九州に落ち延びた尊氏は、勢力を盛り返して再び上洛軍を起こします。

 楠木正成は足利尊氏を京都から追い払った直後、後醍醐天皇に尊氏と手を結んで政権を安定させるよう進言し、さらに尊氏が九州から上洛してくると、守るに難く攻めるに易い京を退去し、洛中(京都市街)に足利軍を引き入れたうえで包囲殲滅するよう献策します。しかし、勝ちに驕る因循姑息な公家たちに、いずれも退けられてしまいました。正成は朝廷の命令に従って足利尊氏を討つために湊川(現在の兵庫県神戸市)に出陣。圧倒的な敵勢を一手に引き受けて天皇方の主力部隊を無事京都へ落ち延びさせ、自らは見事な最期を遂げるのです。

 湊川の戦いに臨む際のエピソードとして有名なのが「桜井の別れ」です。死を覚悟した正成は、桜井の駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井)で息子・正行(まさつら)に2000騎を引き連れて故郷に帰るよう命じます。「自分も一緒に」とすがる正行に、「もし私が死ぬことがあっても、楠木一族が1人でも生き残っていたら、帝の絆に思いを致し、しっかりとお仕えして戦い抜け」という言葉を残し、自らは700騎を率いて湊川に向かうのでした。

 この訣別の場面は、明治時代に「青葉茂れる桜井の」という歌詞で始まる唱歌にもなっています。メロディの艮さもあって、私も小学校時代によく口ずさみました。

 寡兵で大軍を打ち破る痛快さや、自らの理想と節を守る生き様の美しさ、そして桜井の別れの哀切さまで、楠木正成の人生を彩る様々なシーンごとに、それぞれの見せ場とテーマがあります。私も子供の頃から、正成の物語を読んだり聴いたりするたびに「ときめき」を覚えたものです。

 もしかすると今の若い人の中には、かつて楠木正成が英雄視されたのは、戦前の軍国教育の影響だと勘違いされている方もいるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。私が楠木正成に「ときめき」を覚えた際、軍国主義がどうのなど、まったく考えたこともありませんでした。

 そもそも、楠木正成は、没後すぐの14世紀に成立した『太平記』の中で、すでに智略あふれる英雄として描かれています。さらに驚くべきことに、正成と敵対した足利氏寄りの視点で書かれた歴史物語『梅松諭』(同じく14世紀の書です)にすら、英雄として極めて同情的に描かれているのです。正成が、同時代の人たちからいかに高く評価されたかがわかります。

 『太平記』はその後も広く読まれ、正成の「天才軍略家」ぶりは広く語り継がれていきました。たとえば、戦国時代に羽柴秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛を評するのに、「昔楠木、今竹中」などという言葉も残されています。さらに江戸時代に入ると、水戸光圀が「忠臣の鑑」として楠木正成を大いに顕彰しました。光圀は、元禄5年(1692)に、湊川の正成の墓に「鳴呼忠臣楠子之墓」と刻んだ碑を建てています。

 また、江戸時代から盛んになった庶民の娯楽「講釈(講談)」でも、楠木正成は大人気のヒーローになりました。

 「今夕より正成出づ」

 そんな張り紙が出されると、講釈場に、どっとお客がつめかけたといいます。

 この人気と尊崇の念は幕末に至っても衰えず、吉田松陰をはじめ多くの志士たちが湊川の「鳴呼忠臣楠子之墓」の碑に詣でました。明治9年(1876)、正成の忠誠心に感銘を受けた駐日イギリス大使ハリー・パークスが、桜井の地に建立された記念碑に英文の碑文を寄せていることからも、当時の圧倒的な人気が窺えます。楠木正成は、かくも長きにわたって日本人の心を捉えて止まない存在だったのです。

 

 地域自治を実現し「リトル・ユートピア」を築く

 そんな楠木正成ですが、実はその前半生は謎に包まれています。

 ただ当時、正成が河内国にしっかりと根を生やしていたことは間違いありません。彼が、自分の根拠地である赤坂城や千早城で戦った手法は、いまでいうゲリラ戦法のようなもので、土地の人間たちの熱烈で根強い支援なしに続けられるはずがないからです。

 正成の屋敷跡は、千早赤阪村水分と推定されており、現在もその近傍には楠木家の氏神とされる建水分(たけみくまり)神社があります。水分とは文字通り「水の配分」を意味し、おそらく正成は、地域の有力者として潅漑用水の配水権を司っていたのでしょう。

 さらに正成は、京大坂と高野山を結ぶ高野街道を中心とする幹線道路の陸運や、堺港から各地を結ぶ水運などの利権も押さえていたと考えられます。また、千早城が築かれた金剛山地は、辰砂(水銀の原料)などの産地でもあり、その採掘によって大きな利を得ていたともいわれます。

 金剛山は、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が修行した場所でもあります。正成が物流や鉱山など様々な権益を司った背景には、そのような宗教勢力との結びつきもあったことでしょう。つまり楠木正成は、河内を地盤として民の生活を支えつつ、広いネットワークを束ねる存在だったのです。現代的にいえば「河内を拠点にした地域自治の実現者」ということになるでしょう。

 私は、楠木正成は太っ腹で頼りがいがあり、公明正大な善政を行なって、河内の民衆から大いに慕われる存在だったのだと思います。言うなれば彼は、河内の地に、自らの腕っ節一つで「リトル・ユートピア」を築き上げていたのではないでしょうか。

iyashi

著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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