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「ディスカバー・ジャパン」の衝撃、再び。

新井満(作家),藤岡和賀夫(プロデューサー)

2011年02月07日 公開 2022年08月17日 更新

「ディスカバー・ジャパン」の衝撃、再び。

1970年は大きな転機の年だった

 新井 1970年10月から「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンを始められたとき、藤岡さんは何歳だったんですか。

 藤岡 41、2歳ですかね。

 新井 私は、電通入社がたまたま70年なんです。ですから、藤岡さんの活躍を会社の外からではなく中から眺めていました。もともと私は本社に入ったんですが、すぐに大阪支社へ行けといわれた。それで毎日何をしていたかというと、千里の万博へ通っていました。べつに仕事はなく、とにかく万博というものをよく見ておけといわれました。その後、神戸でユニバーシアードやポートピア’81、本社に帰ってリレハンメル五輪や長野冬季五輪を担当するわけですが、広告ではなくイベントの仕事をすることになった、わが電通人生の最初の契機が万博でした。それが70年9月に終わり、10月から「ディスカバー・ジャパン」ですから、70年は私にとって忘れられない年なんです。

 藤岡 僕の場合も、同じ年の3月に富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」キャンペーンを始めたから、記念すべきキャンペーンが二つあったという意味で大きな転機の年でしたね。いま思うと、べつに重たいとも思わないんだけど、当時にしてみれば重たい仕事が続いたわけです。

 新井 それからあの年は、なんといっても三島事件です。作家の三島由紀夫さんが11月25日、自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入し、割腹自殺を遂げた。

 藤岡 僕は、三島さんの名前を出すと誤解されるかなと思って黙っていたんですが、川端康成さんに「ディスカバー・ジャパン」のサブタイトル、「美しい日本と私」という言葉をいただく前の段階では、三島さんに頼もうと思っていたんです。

 新井 それはどうしてですか。

 藤岡 そのときの勘ですよね。もう一つは、三島文学に傾倒していたということもあります。非常に生意気なことをいえば、三島作品を読んだから、僕は作家を志さなくなった。こんなすごい人がいるんだったら無理だと思った。

 新井 追い越すのはむずかしいと?

 藤岡 それはもう、足許のその先にも及ばないとわかった。

 新井 その三島さんにはアプローチしたのですか。

 藤岡 新潮社の三島さん担当の編集者を通じてアプローチしました。でも、結果はノーって、断られた。

 新井 ノーの理由はあったんですか。

 藤岡 いや、聞きませんでした。

 新井 あのころ、三島さんはすでに死を覚悟しているときですから、ほかの約束を入れている場合ではなかったでしょうね。

 藤岡 どういう理由なのか、わかりませんけどね。

 新井 最初は、川端さんより三島さんだったというのは興味深い話ですね。そうすると、川端さんだから「美しい日本と私」。三島さんなら、どういうふうになっていたのか。

 藤岡 いや、わかりません。(笑)

最初の反応は、非難と批判ばかり

 藤岡 「ディスカバー・ジャパン」のタイトルロゴに入れた矢羽のマークですが、「ディスカバー・アメリカ」の風見鶏マークに似ているんです。それで、あとで真似したとかいわれたんですが、最初、僕は赤い丸を入れたらどうかと思った。しかし、入れなくてよかった。「ディスカバー」「日の丸」「ジャパン」になると、一見、国粋主義みたいなイメージに取られるじゃない。だから、当時の僕の頭の中にあった構想は、かなり危険水域までゆらゆら近づいていたのかもしれない。僕自身も初めての大がかりなキャンペーンでしたから、構想を固めるのに時間がかかりました。

 新井 最初の反応はどうでしたか。

 藤岡 最初のポスターが貼り出されたとき、非難囂々でした。まず第一に、日本国有鉄道がなんで英語を使うんだというクレーム(笑)。訳せば「日本発見」なんですが、あえて訳さなかったので、意味がわからない。

 新井 当時は「DISCOVER」という言葉が耳慣れない英語だったらしいですね。いまでは信じられないけど。

 藤岡 そう、誰も「ディスカバー」といえなくて、「デスカバー」といっていた。それくらい聞き慣れない英語だった。もちろん意味もわからない。当時の電通の役員が全員、慌ててコンサイスの英和辞典をめくったくらいです。(笑)

 新井 「ディスカバー・アメリカ」というのは、その何年前ぐらいにあったんですか。

 藤岡 「ディスカバー・アメリカ」は1967年から始まった、いわゆる「バイ・アメリカン」のキャンペーンです。要するに、アメリカ国内には素晴らしいところがたくさんあるから、アメリカ人は海外旅行をするより国内旅行をしましょう、国内にお金を落としましょう、という国策のようなものでした。

 新井 これは成功したんですか。

 藤岡 ある程度ね。だから、当時の親米学者や、アメリカ通を売り物にする評論家たちが二番煎じだといった。その次は、日本の国土を荒らすことにつながるという批判もありました。それから、有名な保守主義者が、新しいナショナリズムの運動だと非難した。

 新井 「ディスカバー・アメリカ」に似ているといわれて、藤岡さんは反論されましたか。

 藤岡 その都度、反論しましたよ。だいいち、「ディスカバー・アメリカ」を調べて本にしたのは僕なんですから。いずれにせよ、最初のうちはそういう否定的な声ばかりでした。

 新井 べつにいいんじゃないですかね。アメリカで「ディスカバー・アメリカ」、日本で「ディスカバー・ジャパン」でも。

 藤岡 いまになるとね。だけど40年前というのは、世間の常識もいまとは違うし、一般の感覚も違う。天下の朝日新聞が、それで特集を組んだりしたわけですから。

 新井 やり玉に挙げるには、ちょうど藤岡さんがよかったんですかね。

 藤岡 僕の名前が売れてくるのはもっとあとですから、そのときは僕を目の敵にするというより、「ディスカバー・ジャパン」そのものが目の敵だったはずです。

東の“ブレ写真”vs.西の「マンダム」

 新井 1回目に出たポスターですが、国鉄がよくこのブレ写真を採用しましたね。

 藤岡 いまさら僕がいうのもなんだけど、やはりちょっとわからないよね、何だか。(笑)

 新井 この写真は何もいっていないのと一緒なんです。北海道の○○岬へ行けとか、沖縄の○○島に行けとかという写真じゃないですから。

 藤岡 その試み自体が日本で初めてだった。要するに、観光ポスターというのは目的地が載っている。十和田湖とか、京都とか、津和野とか、雲仙とか。

 新井 普通は載せますよね。

 藤岡 それがないと観光ポスターじゃなかった。だから、よくこれやったと思います。

 新井 しかし、このブレ写真に決めたの、藤岡さんでしょう。

 藤岡 採用したのは僕だけど、こんなのを撮ってくるとは、最初から想像していない。ブレ写真を載せようなんていうアイデアはなかった。

 新井 飯塚武教さんという写真家が、「どうですか」と持ってきたんですか。

 藤岡 いきなり持ってきたのがこれなんですよ。僕もいいました、「これ、なんだ」と。(笑)

 新井 何だっていいました?

 藤岡 いや、あまり説明もなかったけどね。だいたいそういう世界ですよね。説明できるような感覚だったら、感覚じゃないんですよ。説明できないから感覚であって。だから、これを初めて国鉄の幹部のところに持っていったとき、みんながみんな、腕を組んで考えちゃった。判断停止です。どうしていいかわからない。(笑)

 それで、「みなさん、このポスターをみて何も感じないんですか。みなさんの様子をみて、私はホッとしました。みなさんにこれがわかるようなら、このキャンペーンは失敗します」といったんです。それ以来、国鉄の幹部には、自分たちのわからないものがウケるんだという論理ができた。(笑)

 新井 悟ったわけですね。上手に騙したといいますか、説得してしまいましたね(笑)。じつは、これと対極的なのが、大阪電通がつくった「マンダム」です。「ディスカバー・ジャパン」には有名なタレントは一人も出てきませんが、こちらはコテコテのストレート・コマーシャルで、チャールズ・ブロンソンを起用し、「男の体臭」というキャッチフレーズがウケ、売れに売れた。東の「ディスカバー・ジャパン」と西の「マンダム」は、同じ電通のコマーシャルとは思えないような(笑)、シンボリックなCMでした。

 藤岡 「マンダム」は、すごくわかりやすい。こちらはスポンサーもわからなかった。僕だってわからなかった(笑)。だから、そういう理屈じゃない時代に入ってきたわけですよ。のちのち、僕が盛んに「感性」とか「少衆」とかいうんだけど、時代の転換点にきていた。

 新井 もっとわかりやすく分類すると、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンは、文学でいえば純文学で、「マンダム、男の体臭」は大衆文学だったんじゃないですか。それぐらいはっきり分かれていた。そもそも「ディスカバー・ジャパン」は、なんとなく旅に出てみようかなという気分にさせれば大成功、くらいの低い達成ポイントを設定していたと思うんです。その先の、北海道へ行けとか、沖縄に行けというのは、あなた自身の問題ですよ、と。まずは家から出てみませんかという、そういうお誘い広告ですよね。むしろ場所を特定すると、かえって出かけにくいんですよね。だから、イメージキャンペーンの嚆矢といえるわけです。

「美しい日本と私」にこだわった理由とは?

 藤岡 ちょうどそのころ、『アンアン』とか『ノンノ』という女性誌が創刊された。その読者層と「ディスカバー・ジャパン」が狙ったターゲットがピタリと合って、雑誌の売れ行きも伸びたし、旅に出る若い女性も増えるという相乗効果が生まれたんですね。

 新井 『アンアン』や『ノンノ』を手に持って旅をする、「アンノン族」という現象が話題になりましたね。

 藤岡 『アンアン』の初代編集長だった木滑良久さんは、それまでの女性誌のサイズより大きくして写真をふんだんに使ったり、「ディスカバー・ジャパン」のポスターに出てくるような女性をどんどん誌面に登場させた。それがウケたといっていました。

 新井 私が「ディスカバー・ジャパン」のポスターを初めてみたとき、いったい何をいわんとしているんだろうと考えたものです。でも、よくわからなかった。ただ、解答はこのポスターにはないな、ということはわかったんです。つまり、これは自問自答するしかない仕掛けになっているな、と思った。いわば、自分探しキャンペーンの初めての広告じゃないかと。

 藤岡 ポスターの前に立って、そこまでちゃんと見通した人は少ないですよ。僕も、基本のコンセプトは「ディスカバー・マイセルフ」だと決めていました。ただし「ディスカバー・マイセルフ」では、キャンペーンのタイトルにならないから、「ディスカバー・ジャパン」にしたわけです。その「マイセルフ」の部分をどう表現するかと思案していたとき、「美しい日本と私」という言葉がひらめいた。ところが、どこかで聞いたことがあるなと考えたら、1968年にノーベル文学賞を受賞された川端康成さんがスウェーデンで講演されたときの演題が、「美しい日本の私」でした。

 新井 最初は知らなかったのですか。

 藤岡 しばらくして思い出し、自分の本棚で見つけた(笑)。しかし、こちらは「美しい日本と私」、川端さんは「美しい日本の私」で、一字違いだからいいだろうとはいかないわけです。相手はノーベル賞作家ですから。それで川端さんのお許しを得るために鎌倉のご自宅へうかがったら、二つ返事でOKをいただくことができました。

 新井 「美しい日本の私」よりも、「と」のほうがよかったんですか。

 藤岡 「の」では、美しい日本の中に自分が囲われている感じ。「ディスカバー・マイセルフ」は「美しい日本・アンド・ミー」なんですよね。

 新井 要するに、美しい日本と、旅人としての自分は対等であると。だから、「発見」なんですね。「日本の私」だと、発見しようがない。なるほど。それでその場で書を書いてもらったんですか。そのアイデアが斬新でしたね。

 藤岡 どこにでも売っているような半紙に10枚以上、揮毫してくれて、持っていきなさいと。(笑)

 新井 ノーベル文学賞の川端さんが書を書いたというのが、やはり重石になりましたよね。

「やった!」というより「なるほどな」が実感

 新井 ポスターのコピーをみても、たとえば「目を閉じて……何を見よう」「見知らぬ世界に橋をかけよう」「海に見つめよう、私を」など、一貫して美しい風景の向こう側に自分を探し出せといっているんですね。事実、あのポスターをみて、あるいはコマーシャルをみて、みんな旅に出たわけです。それはなによりの結果です。「アンノン族」が出現したとき、「しめたっ!」と思いませんでしたか。

 藤岡 「しめたっ!」という感じはなかったけれども。

 新井 だって、現実に何千万人も動いたわけですから。しかも、名所旧跡や観光地に行くだけではなく、お寺の宿坊に泊めてもらうとか、いままでとは違う旅があることを日本人が知る契機になった。普通なら「やった!」と叫んで祝杯をあげるところですが。(笑)

 藤岡 モノがたくさん売れて、自分のところに利益が返ってきたりしたら、「やった!」という感覚かもしれないけれど、ちょっとそこが違うんですよね。

 新井 でも達成感はあったでしょう。大成功したわけですから。

 藤岡 「なるほどな」という感じでしたね。なるほど、こういうふうにキャンペーンをすると効果が挙がるんだな、という。ですから、成果に対して喜びを感じるというより、ツボというか、コツみたいのがみえた。それ以後、僕はほとんどキャンペーン型の仕事に取り組むことになるわけです。たんなる広告とかテレビコマーシャルじゃなくて。

 新井 世の中を動かすということはこういうことなのか、という意味での「なるほどな」ですか。

 藤岡 そうです。「なるほどな」といって、一人ほくそ笑むという(笑)。僕も電通へ入って20年ぐらい広告のことを勉強してきたけど、こんな体験は初めてですから、「あっ、広告というのはこういうところがいちばん面白いな」と思った。

 新井 世の中の人びとを動かすということは、時代を創るということです。それが実現できたわけですから、これ以上に幸福な広告マンはいませんよね。

 藤岡 普通のキャンペーンと違って、「ディスカバー・ジャパン」の場合は、ポスターだけじゃなくて、ポンパ列車(当時、一番人気だった日立カラーテレビの愛称「ポンパ」を冠につけた特別編成の展示列車)を走らせたりとか、いろいろな展開を多岐にわたってやりました。いわば峨峨たる山脈に向かって「ヤッホー!」というと、声が何重にもなって返ってくる快感と同じなんですよね。一つだけのコマーシャルでヒットしても、シンプルに「ヤッホー!」が返ってくるだけですが、エコーし合うわけ。これが、すごく面白い。そのエコーは、僕にも返ってくるし、国鉄にも返ってくる。それは国鉄の人たちも味わったことのないエコーだったんです。いままでお客さんからは「ストばかりしてバカヤロー」くらいの反応しかなかったのが、いろいろなエコーが職員のところに返ってくる。そんなことは、国鉄に何十年勤めていても経験したことがなかったわけです。

 新井 国鉄はビックリ仰天したでしょうね。あれよあれよという間に藤岡さんに乗せられて、あれよあれよという間にエコーがこだまするようになった。それはたいへん嬉しいんだけれども、戸惑いも大きかったんじゃないですか。

 藤岡 そうでしょうね。大きい組織だから、新しいポスターをつくって納入しても、地方の駅に貼られるまでに半年くらいかかる(笑)。ところが、エコーのほうはすぐ返ってくるわけですから、戸惑ったでしょうね。

 新井 クライアントが考える以上に、時代のスピードがものすごく速くなっていたわけですね。

永遠に終わりのない旅

 新井 「ディスカバー・ジャパン」には私もずいぶん影響を受け、1988年に書いた『尋ね人の時間』で芥川賞をいただくのですが、尋ね人というのは誰のことかというと、じつは自分自身のことなんです。つまり、主体としての自分が、ある日ポカッといなくなっちゃった。残った身体は空洞です。主体としての自分はどこにいるんだと、失われた我を求めて訪ねさすらう、悲しくも滑稽な男の話です。『尋ね人の時間』も、やはりコンセプトは自分探しなんです。

 藤岡 なるほどね。

 新井 それで、「アンノン族」は藤岡さんに乗せられて日本中を旅して、それに飽き足らず、もっと進化して世界中を旅するようになり、いわば「ディスカバー・ワールド」になっていった。そのきっかけを藤岡さんがつくったわけですが、さて、いま藤岡さんが振り返って、「アンノン族」は自分自身を探し当てたと思われますか。

 藤岡 いや、それは無理でしょう。永遠に無理なんじゃないですか。僕自身、自分探しという言葉は使ったことないけど、やはりつねに新しい自分を発見しようとしているわけで、でもなかなか見つからない。(笑)

 新井 でも、見つけにいきなさいと提案された。

 藤岡 自分にもいっているんです。僕の場合は、このキャンペーンを10年以上やって、仕事としてはすでに終わっているのに、その後に出した本のすべての帯に「ディスカバー・ジャパン」を入れているんですよ。テーマは「風景」、「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」に絞りましたが、要するに、終わりのない旅なんですよね。

 だから今回、40年の記念カタログ制作に当たって副題に入れたのは、「大切にしたい日本と私」。これは、これからのちの「ディスカバー・マイセルフ」、つまり「ディスカバー・ジャパン」を続けることを自分で確認しているということかもしれませんね。

 新井 日本で初めての提案型のキャンペーンの、自分自身を発見しなさいといった提案者自身が、じつはたぶん発見できないだろうと思っていたというわけですか。

 藤岡 まあ、そういわれてもしょうがない(笑)。でも、発見できない自分がいるからこそ、もっと発見しましょうということです。

 新井 世界のいちばん果ては、自分の背中ですよね。地球を一周しても、自分の背中にはついにたどり着けない。そして、永遠に探し出せないのが自分自身なんだと思います。もしかすると藤岡さんは、広告キャンペーンに名を借りて、「ディスカバー・ジャパン」という純文学をお書きになったのではありませんか、永遠に未完の。

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