ホーム » 生き方 » 幕末のジャンヌ・ダルクー山本八重を生んだ会津藩の「教育」の凄み

幕末のジャンヌ・ダルクー山本八重を生んだ会津藩の「教育」の凄み

2013年02月02日 公開

中村彰彦(作家)

『歴史街道』2013年2月号より

会津若松城

「戦う女」八重の獅子奮迅の働き

新島八重-旧姓・山本八重は、幕末の弘化2年(1845)に会津藩の砲術(銃術)師範の家に生まれ、会津戦争では当時最新鋭の7連発式スペンサー銃を手に活躍。明治以後は京都に移ってキリスト者となり、同志社大学を設立する新島襄と結ばれ、共に理想の教育実現に努めます。さらに日清・日露戦争では従軍看護婦として働くなど、その一生を「公」のために尽くした人物でした。

彼女を表現するのに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」「日本のナイチンゲール」などという言葉が使われるのは、このような八重の生き方を反映してのものです(ちなみに、「ハンサム・ウーマン」とは、新島襄が八重を「生き方がハンサム」と評したことに由来します)。

その八重が明治44年(1911)に、男装して腰に刀を差し、銃を持って掲影した写真があります。八重は会津若松城に籠城する際、鳥羽伏見の戦いで斃れた弟・三郎の形見の衣服をまとい、断髪して戦い抜いていますから、これは往時を偲んで撮った1枚にほかなりません。

この写真で注目すべきは刀の差し方です。普通、刀は鍔が帯に当たるまで深く差し込み、鐺(刀の鞘の末端)が下に下がる差し方が多いでしょう。しかし八重は、刀の柄をかなり前に出しています。帯から鍔までにゆとりがなければ、すぐに鯉口を切る(刀を抜くために鍔を左手親指で押し出す)ことができないからです。しかも、刀身をほぼ水平に横たえています。これは刀を抜いて即座に斬る「抜即斬」の構えです。つまりこの写真は、女性がたまたま刀を差したものではなく、八重が実戦を知る「戦う女」だったことを如実に示す1枚なのです。

膂力がなければ刀を存分に扱うことも、重たい銃を射撃することもできませんが、八重はすでに13歳の時、四斗俵(重さ60キロ)を肩まで4回も上げ下げできたほどの腕力の持ち主でした。後年の写真を見ても、腕は太く、胸に厚みがあり、どっしりした臼のような腰をしています。晩年に「今の世なら運動選手になったかもしれない」と述べるほど、運動神経も優れていました。

日本には「女武者」の伝統があります。『平家物語』に登場する、木曾義仲に従った巴御前。強弓を引いて鎌倉幕府軍と戦った越後の板額御前。戦国時代、立花道雪の一人娘で女城主となった立花誾千代……。江戸時代の各藩にも、常日頃から腰に大小を差して奥殿に仕え、いざというときは戦う「別式女」「帯剣女」「刀腰婦」と呼ばれる女性たちがいました。この系譜を見れば、「鉄砲」を扱う女性が出てきても不思議ではありません。八重は、父も兄も砲術師範ですから習うより慣れろで銃術を習得していったのでしょう。

八重は、会津若松城の籠城戦で大活躍します。ことに西軍(新政府軍)が城下に侵攻してきた慶応4年(1868)8月23日には、多くの藩士たちがまだ国境で戦っており、城内は老兵や婦人、子供ばかりでした。しかも会津藩の装備はゲベール銃など旧式銃中心でしたから、八重が7連発式のスペンサー銃を手に獅子奮迅の働きをしなければ、城の北出丸は突破され、たった一日で落城の憂き目にあったかもしれません。

その日、攻め込んで来たのは土佐藩と薩摩藩の砲隊でしたが、土佐藩兵の死傷率はかなり高く、また、薩摩藩の砲隊を率いていた大山厳も足を撃たれています。土佐藩兵や大山を撃ったのも、銃の性能から考えると八重であった可能性が高いのです。

iyashi

関連記事

編集部のおすすめ

新島八重は、なぜキリスト教の道に入ったか

中村彰彦(作家)

山本覚馬と幕末京都

星亮一(歴史作家)


WEB特別企画<PR>

WEB連載

アクセスランキング

WEB特別企画<PR>

WEB連載

iyashi
  • Facebookでシェアする
  • Twitterでシェアする

ホーム » 生き方 » 幕末のジャンヌ・ダルクー山本八重を生んだ会津藩の「教育」の凄み