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江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか

2013年03月28日 公開

宮元健次(作家・建築家)

『歴史街道』2013年4月号より

大正18年(1590)、徳川家康が入封するまで、江戸城のまわりは湿地だらけで、竹の生い茂る荒れ地だった。
そんな関東の片田舎の江戸を、100万の人口を擁する大郡市に変貌させた男がいる。南光坊天海。家康の宗教政策ブレーンの彼こそが、江戸の発展を仕組んだ張本人であった。
富土山を北に見立て、町を螺旋状に広げていき、鬼門を寺社で封じ、さらに強力な地霊を祀る…。
東京の原点に施されていた、秘密の仕掛けとは。

 

江戸の発展を仕組んだ天海とは

 問題、江戸をつくったのは誰でしょうか?

 江戸といえば、「徳川家康」のイメージが強いのでその名前が挙がりそうですが、歴史に詳しい方であれば、「室町時代の武将の太田道灌」とか、あるいは「鎌倉時代以前にいた江戸氏」と答えるでしょう。「大工さん」なんて意表を突いた答えも出てくるかもしれませんが…。

 では、「江戸発展の礎を築いたのは誰でしょうか?」という問いは、いかがでしょうか。いろいろな回答がありそうですが、やはり一番有力な答えは、江戸に幕府を開いた「徳川家康」でしょう。

 とはいえ、江戸の町は家康の力だけでできたわけではなく、その陰には、多くの人の智恵や労力があったことは言うまでもありません。そして私は、とりわけある人物こそが、江戸の町が発展するように「仕組んだ張本人」であると思っています。

 江戸の町は天正18年(1590)の徳川家康の入封によって整備され始めました。その頃、江戸城のまわりは湿地だらけで、城といっても石垣などはなく、竹が茂る荒れ果てた状態だったといいます。

 しかし、家康はそんな関東の片田舎に過ぎなかった土地に本拠を置き、開発を進めました。江戸城のまわりに堀をめぐらし、その土砂で湿地を埋め立て、さらには東海道などの五街道を整備して、江戸に人や物が流入するようにしていったのです。

 そして、このような町づくりを進めるにあたって、家康に助言を与える人物がいました。宗教政策担当のブレーンとして活躍した天台僧、南光坊天海です。実は彼こそが、江戸の発展を仕組んだ張本人でした。

 天海は多くの謎に包まれた人物で、詳しい出自は不明ですが、一説では天文5年(1536)に会津の蘆名氏の一族として生まれたと言われています。108歳という長命で、3代将軍・家光にも仕えました(他にも134歳まで生きたという説や、明智光秀の後身ではないか、という説もあります)。

 若き日に随風と号し、下野国粉河寺で天台宗を学んだ天海は、その後、比叡山延暦寺をはじめ、各地の寺で学を深めています。そして、武田信玄や蘆名盛氏の招聘を受けてその元に赴いた後、天正16年(1588)に武蔵国川越の無量寿寺北院(現存の喜多院)へと移りました。やがて天台宗における関東の実力者となった天海は、家康の信頼を得て参謀として仕え、江戸の町づくりを担うことになるのです。

 

「四神相応」と「の」の字型の掘割

 関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)に幕府を開きますが、その際、関東の地相を天海に見させました。天台密教の僧侶は、天文、遁甲、方術などの陰陽道の知識を持ち合わせていましたが、天海はそれらを駆使して西は伊豆から東は下総(現在の千葉県)までの広大な土地の地相をくまなく調べ、その結果、江戸こそが幕府の本拠地とするのに相応しいと定めたのです。

 その判断の基準となったのは、「四神相応」でした。「四神相応」とは、古代中国の陰陽五行説に基づく考え方で、いわゆる風水における大吉の地相を指します。東に「青龍の宿る川」が流れ、西に「白虎の宿る道」が走り、南に「朱雀の宿る水」、北に「玄武の宿る山」がある土地は栄えると考えられてきました。

 中国の長安はこれに基づいて選定され、日本でも平安京(京都)がまさにそうです。

 陰陽道を修めた天海は、江戸もこの「四神相応」に適っており、幕府の本拠地として相応しいと考えました。江戸は東に平川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったからです。実際のところ、富士山は真北から112度もずれていますが、当時の江戸人たちはこれを北と見立てて、半ば強引に当てはめました。江戸城のつくりを見ると、大手門の向きなどもそれに合わせてずれた向きになっていますが、これは意図的に富士山を北に見立てた手法だと思われ、江戸は「四神」によって護られた土地と考えられたのです。

 地形について言えば、さらにもう1つ、城が置かれた本丸台地は江戸の中でも特に地相がいい場所だったことが挙げられます。

 江戸には上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金に台地がありました。本丸台地はこの7つの台地に囲まれており、各台地それぞれの突端の延長線が本丸台地で交わっています。陰陽道ではこうした地形の中心にはまわりの地の気が集まり、文明が栄えるとされるのです。実際に、江戸城があった現在の皇居の地面の磁気を測定してみると、通常の倍の数値があることがわかっています。

 場所が定まった後には掘割が進められましたが、ここにも秘密がありました。通常、堀は城を円で囲むように掘られますが、江戸の場合は螺旋状の「の」の字型に掘り進められていったのです。実は江戸城の内部も渦郭式という「の」の字型になっており、城を中心に時計回りで町が拡大していきました。面白いことに、江戸の人口の増加はこの堀の開削と比例しており、外縁に広がっていくに従って人口も爆発的に増えていきます。つまり、町がどんどん外縁へと広がり、無限に成長していくように設計されていたのです。

 この「の」の字型の町割は、他にもいろいろな利点がありました。敵が容易に城に近づけないので攻められにくい、火災の類焼を防げる、物資を船で内陸まで運搬できる、開削でできた土砂を海岸の埋め立てに利用できる、などです。江戸では平城京や平安京のような方形の条坊制を採らず、螺旋状に発展する機能性に富んだ町づくりを行なったのです。

 こうした江戸城と堀の設計の実務面では、築城の名手であった藤堂高虎らが中心となり、天海は思想・宗教的な面で「陰の設計者」として関わっていました。工事が完成するのは寛永17年(1640)の家光時代で、その時すでに家康も藤堂高虎も他界していましたが、天海はなお存命しており、50年近い江戸の都市計画の初期から完成まで関わったのです。

iyashi

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