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「心身脱落」「只管打座」ー道元のたどりついた悟りとは

ひろさちや(宗教評論家)

2013年07月18日 公開 2023年01月13日 更新

ひろさちや

仏が修行をしておられる

そして、ここのところに、若き日に道元が抱いた疑問に対する解答があります。

われわれは、仏教の修行者は悟りを求めて修行すると思っています。若き日の道元もそう考え、われわれに仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

だが、道元が達した結諭からいえば、それは逆なんです。「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。身心脱落させるのです。

そして、悟りの世界に溶け込む。それがほかならぬ「悟り」です。道元は、如浄の下でそういう悟りに達したのです。

だから、わたしたちは、悟りを得るために修行するのではありません。

わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界の中で修行します。悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。

わたしたちはついつい、これはいけないことだと知っていながら、でもこれぐらいのことはしてもいいだろう……と思ってしまいます。それは自分を甘やかしているのです。

その背後には、自分は仏ではなしに凡夫なんだという気持ちがあります。しかし、自分が仏だと自覚すればどうでしょうか? もちろん、仏といっても、悟りの世界に飛び込んだばかりの新参の仏、赤ん坊の仏です。

しかし、仏だという自覚があれば、〈自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない〉と考えて、悪から遠ざかることができます。それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。

道元はそういう結論に達したのです。

そして彼は、その結論を、

-修証一等・修証不二・修証一如・本証妙修-

と表現しました。修行と悟り(証)が一つであって別のものではない。“本証”とは、われわれが本来悟っていることであり、その悟りの上で修行するのが"妙修"です。

そうだとすれば、坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、

-仏らしく生きるため-

です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。

ですから、坐禅が、禅堂に坐ることだけをいうのであれば、道元はそんなものは必要ないと言うでしょう。道元にとっては、行住坐臥(歩き・止まり・坐り・臥す)のすべてが坐禅でなければならないのです。

日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、

-只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)-

と呼んでいます。"只管""祇管"とは宋代の口語で、「ひたすらに」といった意味。ただひたすらに坐り抜く、眠り抜き、歩き抜く、その姿こそが仏なのです。仏になるための修行ではなしに、仏が修行しておられるのです。道元がたどり着いた結論はそのようなものでした。

 

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