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戦艦大和の運用次第で、太平洋戦争の戦局は覆っていた!

平間洋一(元防衛大学校教授)

2013年09月27日 公開 2022年12月07日 更新

ガダルカナルに大和を投入すれば

 ミッドウェー海戦に敗れた後、日本は反攻に転じたアメリカと、ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って死闘を演じた。昭和17年8月から翌18年2月までの半年間のこの戦いにおいて、日本は圧倒的物量を誇るアメリカに消耗戦を強いられた挙句、撤退を余儀なくされる。

 この間、大和はトラック島に進出していながら、ガダルカナルの戦いに投入されることなく、「大和ホテル」と椰輸されるほど無為に碇泊する日々を送っていた。もし、大和が初期のヘンダーソン基地砲撃から戦闘に加わっていれば、戦局は大きく変わっていただろう。

 昭和17年10月、陸軍はガダルカナルへの高速補給船派遣を決定。海軍はそれを支援すべく、アメリカの航空攻撃を封じるために戦艦金剛と榛名を派遣し、米航空隊の拠点・ヘンダーソン基地に夜間艦砲射撃をさせた。この砲撃は凄まじく、日本陸軍が「野砲千門に匹敵する」と賞賛したほどだった。しかし米航空隊は一部残存しており、金剛と榛名が引き揚げた後、補給船団は米軍の反復攻撃を受けて、壊滅してしまうのである。

 もし46センチ砲を誇る大和が初期からこの砲撃に加わり、たびたび艦砲射撃を加えていれば、米軍は反撃できず、陸軍のヘンダーソン基地制圧作戦も進展していた。もちろん敵航空隊に大打撃を与え、ラバウルからガダルカナルへの長距離飛行を強いられていた日本海軍航空隊の負担も、軽減できただろう。

 実際のガダルカナル争奪戦において、日本海軍は 2076機の航空機を損失し、日米開戦初期に世界最高の練度を誇った搭乗員の多くを失ってしまった。その後の戦局をみても、ガダルカナルにおける熟練搭乗員の損失は痛恨の極みだが、大和を活用していれば、それを防ぐことができた可能性が高い。ミッドウェーでもガダルカナルでも、大和が航空兵力を大いに助ける――そうなっていれば、「航空優勢の時代の無用の長物」などと貶められることもなかったはずだ。

 もちろん、大和は実際の海戦でも実力を発揮しただろう。昭和17年11月の第三次ソロモン海戦において、アメリカは最新鋭戦艦サウスダコタとワシントンを惜しげもなく投入。対する日本海軍は旧式戦艦比叡と霧島で迎え撃つが、両艦とも失われてしまう。しかし大和が出撃していれば、少なくとも両米戦艦にひけは取らず、絶対に負けはしない。アメリカはレーダー射撃を導入していたというが、まだ実用化されたばかりであり、そうそう大和がやられることはなかっただろう。
 

抑止力として、そして艦隊決戦へ

 以上、実際の戦闘に即して、大和をいかに用いるべきだったかという、いわば「戦術的」運用について語ってきた。だが大和は、日米戦争の帰趨自体を変えてしまうような、「戦略」を左右するほどのカを持った艦でもあったことを、我々は忘れてはなるまい。次に戦略的な活用法を検証してみよう。

 まず、第一の戦略的活用ポイントは、「抑止力」である。日米開戦前夜の当時から、大和型戦艦の存在を公表し、日米交渉に活用すべきという主張はあった。戦艦の本質は「抑止力の象徴」であり、確かにこの意見は一理ある。

 そもそも米海軍は、日米開戦1カ月前の昭和16年(1941)11月1日には、ハル国務長官を中心とする対日強硬派に、可能な限り対日戦争の勃発を遅らせるよう申し入れていた。さらに11月5日、ルーズベルト大統領に、「対日戦争を企図してほならぬ」と開戦に反対している。要するに、「日本海軍には勝てない」と言っていたのである。

 それというのも当時、米海軍はイギリスへの支援に手一杯であり、また多数の艦艇を一気に建造したために熟練乗組員を方々に転出させねばならず、太平洋艦隊の練度が著しく低下していた。米海軍は、これでは日本海軍に勝つのは不可能と考えていたのである。

 このような状況において、大和の存在が公表されていたならば、少なくとも米海軍の意向を汲んで、ハルノートのような最後通牒を突きつけることは延期されただろう。大和に対抗できる戦艦を造るためには、莫大な時間を要する。実は大和建造ではその施設建設に時間がかかっており、アメリカも同様に時間を取られたであろうことは間違いない。

 そうなれば、日本には多くの選択肢が生まれていたはずだ。第二次大戦の転機であるドイツ軍のモスクワ攻略失敗は、まさに真珠湾攻撃と同時期に起きている。もし日米開戦が遅れていれば、日本はその結果を踏まえて、ドイツとの同盟破棄など、さらに取りうるべき手立てを考えることができたかもしれない。

 しかし、それでも日米戦争が起きた場合、大和はいかに用いるべきだっただろうか。第二の戦略的活用ポイントとして、私は真珠湾攻撃をせず、当初の対米戦略どおり、艦隊決戦をすべきだったと考える。

 日本が真珠湾攻撃をしていなければ、アメリカも当初の対日戦略に基づき、マーシャル諸島沖を襲撃しようとしたはずだ。アメリカ人の気質を考えても、米海軍は守りに徹するのではなく、全力で艦隊決戦を挑んできたであろう。だが、そのためにはやはり準備の日数を要する。一方、日本は大和を12月16日に竣工させており、その時期には出撃可能だった。となれば、大和は「日米艦隊決戦」に充分に間に合う。そもそも日本は、大和の完成を待って宣戦布告してもよかった。

 その場合、決戦の帰趨はどうなっただろうか。当時の日米の航空戦力比は、太平洋正面では空母では10対3、航空機では2対1と日本の優勢であった。しかも米太平洋艦隊のキンメル長官は戦艦第一主義者で、航空機搭乗員を「Fly Boy」(蝿少年)と軽視しており、日本の航空部隊に対する備えは甘いと見ていい。また戦艦の砲撃においては、アメリカの決戦距離は約2万メートルで、命中率は3パーセント。対する日本海軍の砲撃の腕前は世界一で、命中率は少なくともその3倍はあった。

 そうした前提を踏まえれば、艦隊決戦が生じれば、日本海軍が勝利したことは疑いようが無い。米海軍はダメージコントロールに優れているので、壊滅こそ難しいだろうが、おそらく艦隊に6~7割の損害を与えることはできたに違いない。そうすれば、アメリカはしばらく反撃できず、戦争は長期化しただろう。アメリカ国民の厭戦気分はいやが上にも増し、その後の戦争の推移は、大いに日本有利になったと考えることができる。

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