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杉原千畝を若い人にもっと知ってほしい~命のビザに救われた少女 

2013年10月28日 公開

寿福滋(写真家)

『歴史街道』2013年11月号より》

若い人にもっと杉原を知ってほしい…ビザに救われた少女との出会い

「ヤポンスキー(日本人)?」
リトアニアのかつての首都カウナスの街角で、満面の笑みを浮かべた年輩の女性は、いきなり私を抱きしめた。言葉はわからないが、その目はミスター・スギバラへの感謝に満ちていた…。
杉原ビザで救われた命は、世界中に息づいている。そんな1人に会うために、私はニューヨークへ向かった。

 

「ヤポンスキー?」カウナスでの抱擁

 アウシュビッツから始まり、ワルシャワ、リトアニア、モスクワ、シベリア鉄道、そして船で日本海を渡り、ユダヤ人たちと同じ経路をたどった。各地で杉原のことをたずねると、皆、我がことのように餞舌に語ってくれる。誰かに「ミスター・スギバラ」のことを伝えたいのだ。

 今から20年近く前のこと。杉原千畝が執務していたリトアニアのカウナスをおとずれ、旧市街の露店で買い物をしていると、「ヤポンスキー(日本人)?」と声をかけられた。振り返ると、満面の笑みを浮かべた年輩の女性が立っていて、いきなり頬ずりをして私を抱きしめた。言葉は理解できないが、その親しげな目は、「私、カウナス駅でミスター・スギハラが、ぎりぎりの時間までビザを発行しているところを目撃したわ。そのお礼を日本人に伝えたかったの。ありがとう。ミスター・スギハラ…」と伝えようとしているように、私には思われた。旧ソ連から独立をはたしたリトアニアの街角で、いつか日本人がやってくるのを半世紀以上も待っていたのかもしれない。

 それにしても、直線道路で構成されたカウナスの旧市街は、別れがつらい。いつまでも手を振っているのが見えるからだ。以来、日本を経由して無事に新天地に暮らすユダヤ人たちに、いつか会いに行きたいという思いが募っていった。

 ある時、神戸で輸出業を営むポーランド生まれのユダヤ人ビクター・ナパルスキーさんと対談する機会があった。父をゲシュタポに殺害されたナパルスキーさんは、麦の倉庫の中に作った小さな隠し部屋で暮らし、ブタのえさ箱の隅に残った飼料を食べて飢えをしのいだという。「見つかれば殺される、生きたかった」と最後まで望みを捨てなかった当時の思いを語ってくれた。

 

アメリカに逃れた杉原サバイバーを訪ねて

 そしてナパルスキーさんに、世界のどこかで、杉原ビザで生き延びて暮らしている人に会うことはできないかと相談した。するとニューヨークでナンバーワンのラビを紹介するから、そこで情報を得るようアドバイスを受け、ようやく杉原ビザで命を救われた女性に面会することがかなった。ニューヨークのアインシュタイン医科大学で教授を務めるシルビア・スモーラさんである。そのオフィスを訪ねて、杉原ビザで逃れた時の思い出を伺った。

 「私が6歳のとき、ワルシャワにドイツ軍の爆弾が投下されました」。そして、政府の高官だった彼女のお父さんが手配した車で、一家は国外に逃れたという。手持ちの宝石類を売りながらの生活の末に、杉原が発行するビザを手に入れ、シベリア鉄道に乗った。

 ウラジオストクで敦賀行きの船を待っていたとき、彼女のお母さんが体調を崩し、ドクター・ストップがかかるというアクシデントがあった。しかし、ここで出発を逃すと「私1人の命ではなく、家族3人の命にかかわる」というお母さんの言葉で一家そろって船に乗り込み、無事に日本へ着く。

 日本には2、3カ月ほど滞在し、他のユダヤ人と京都への小旅行もしたという。彼女は清水寺をバックに撮った記念写真を見ながら、「日本人はとても親切にしてくれました」「恐怖を逃れ、とても楽しい日々を過したわ」と語った。

 当時の彼女は「杉原ビザ」のことを知らなかったという。後になって知り、パスポートを杉原の出身地である八百津町へ寄贈した。そして、「いま、ニューヨークの高校生を対象にしたエッセイ・コンテストを始めている」と言って、彼女はデスクにポスターを広げた。そこには“Do the Right Thing”(正しいことをしよう)というテーマとともに、杉原夫妻やビザの写真、杉原の説明が刷られていた。

 「若い人たちにもっと杉原氏のことを知ってもらいたい、彼のことを受け継いでもらいたいという思いから始めました」

 杉原のビザで救われた少女が、こうしてアメリカの若者にその行為を語り継ごうとしている。若者たちはそれを受け止め、それぞれが文章に表現していく。「このコンテストがアメリカ全土に広がり、そして日本でも行なわれるようになるのが夢です」。シルビアさんは熱っぽく語った。

 この取材当時、杉原ビザで命を救われた人は家庭を持ち、子孫たちを合わせると3万人を超えるということだった。それから15年を経た今では、銀河の星の数を数えるような数字になっていることだろう。

 私はまた、新たな出会いを求めて、カウナスの旧市街にある公園のベンチに腰掛けて、「ヤポンスキー?」と声を掛けられるのを待ちたいと思う。

 

寿福滋(写真家)
昭和28年(1953)神戸市生まれ。関西を中心に美術・文化財を専門に撮影。アウシュビッツを訪れて以来20年近く、ライフワークとして命のビザを手にしたユダヤ人の旅路を取材している。写真集に『杉原干畝と命のピザ』(サンライズ出版)など。

歴史街道2013年11月号

「外務省はビザ発給を許可しない。しかし…」。在リトアニア日本領事代理の杉原千畝の視線の先に、領事館の門前に並ぶユダヤ人たちがいました。女性や子供も含む人々は、ナチスの手から逃れようと助けを求めています。ビザを得られなければ、彼らは殺されるでしょう。「真の国益とは何だ。命より重いものがあるのか」。杉原は決断します。「命のビザ」の発給でした。その後、ビザを得てシベリア鉄道で極東に至ったユダヤ人に、さらに苦難が訪れます。ウラジオストクでの日本への渡航不許可、僅か十日間の日本滞在期限…。しかしそんな彼らの窮状に、立ち上がる日本人が次々と現われ、「命のビザ」をリレーしました。人道を重んじたサムライたちを描きます。第二特集は「Q&A武田勝頼の真実」です。

iyashi

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