アウシュビッツで身代わりとなったコルベ神父・ポーランドと日本との絆とは
2014年03月04日 公開 2022年11月14日 更新
『歴史街道』2014年3月号[総力特集]ポーランド孤児を救え!
悪名高きアウシュビッツ収容所で、博愛の精神と信仰を貫いたポーランド人がいた。マキシミリアノ・コルベ神父。彼は、伝道で日本とも深く結ばれた人である。同囚の元ポーランド孤児が目のあたりにした神父の姿とは。
ポーランド孤児を救え!
「兵藤大使、これをご覧いただけますか」
平成7年(1995)10月、日本大使公邸に招かれた元孤児の老人の1人が、兵藤長雄大使に腕をまくって見せた。皺だらけの腕に、なおもハッキリと刻まれていたもの、それは
「16658」
という番号の入れ墨であった。
「私は政治犯としてオシフィエンチムの収容所(アウシュビッツ収容所)に入れられていました。そこで、あのコルベ神父と一緒だったのです。コルベ神父の囚人番号は私と12番違いの16670でした」
実は、抵抗運動に身を投じてナチスに捕まったこの孤児は、マキシミリアノ・コルベ神父と偶然同じ日に、ワルシャワの刑務所からアウシュビッツに移送されていたのだった。そしてこの悲劇の地で、コルベ神父の気高い姿の一部始終を目撃していたのである。
ワルシャワから移送される日、この孤児やコルベ神父はじめ多くの囚人が、鉄道貨車に詰め込まれた。中は真っ暗で臭気も強く、息が詰まりそうだった。すると傍らのコルベ神父が静かに讃美歌を歌い出したのだという。貨車の中はいつしか、讃美歌の合唱となった。元孤児は、この時の歌声が忘れられないと兵藤大使に語った。
そして、アウシュビッツで事件が起きる。1941年7月末、この孤児やコルベ神父と同じ号棟の囚人が脱走したのである。1人脱走者が出ると、同じ棟の10名が処刑される決まりだった。しかも処刑法は陰惨を極めた。座ることもできないような狭い懲罰牢に押し込められ、食べ物も水も一切断たれ、餓死させられるのだ。その苦しみは、言語に絶する。
この時も、無作為に10人が選ばれた。1人ずつ番号が読み上げられていく。すると番号を呼ばれた1人が自らの不運を嘆き、「ああ妻や子供に会いたい」と泣き叫んだ。
その時、コルベ神父が進み出た。何をするのかと息を呑む周囲の人々の面前で穏やかに、しかし毅然と、こう申し出たのである。
「私はカトリックの神父です。もう若くもなく、妻も子供もいませんから、あの方の身代わりになりたいと思います」
そして、懲罰牢の中に消えていったのだった。
コルベ神父は一緒に処刑される餓死刑者のためにひたすら祈り、讃美歌を歌った。1人、また1人息絶えていく中で、なお彼は意識を失わず生き続けた。2週間後、さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、天に召される。その時、彼はなおも祈り続けながら自らの手を差し出したという。1941年8月14日没。47年の生涯だった。
実はコルベ神父は、1931年から36年まで日本の長崎で伝道活動を行なっていた。コルベ神父と共に布教活動を行なったゼノン・ジェブロフスキ修道士(ゼノ修道士)は、その動機をこう語っている。
「孤児を助けるために一番よく働いたのは日本の赤十字です。そのとき、ポーランド人は初めて日本の国を知りました。ポーランドの司教さまは、日本の国のため祈るようすすめました。コルベ神父さまは、日本人に聖母マリアを知らせたいと思いました」(小崎登明『長崎のコルベ神父』聖母の騎士社)
日本に関心をもった大きなきっかけは、日本のポーランド孤児救出にあったのである。そのことを、元孤児の方はご存じであったろうか…。
長崎でコルベ神父は『聖母の騎士』という雑誌を発行した。6年間の布教活動で、同誌の発行部数は6万3500部に達したという。
彼は日本をこよなく愛していたが、ポーランドの修道院の院長への就任を命せられ、帰国したのだった。
ゼノ修道士はコルベ神父の離日後も日本で活動を続けた。長崎の原爆で自らも被爆しながら、なお被爆者救護に当たり、戦後も「ゼノ、死ぬ暇ないね」と口癖のように語りつつ、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽力した。1982年4月、永眠。
平成14年(2002)7月、ポーランドを公式訪問された天皇陛下は、ポーランド大統領夫妻主催晩餐会でのお言葉の中で、とくにコルベ神父とゼノ修道士に言及され、2人を讃えられたのであった。
「貴国と我が国の交流の歴史の中で、1931年から数年にわたって、我が国の長崎で人々のために力を尽くされたコルベ神父を忘れることはできません。その生涯は、コルベ神父に従って我が国を訪れ、その後50年以上にわたって、終生を我が国の戦災孤児の救済などに捧げたゼノ修道士の一生とともに、今も、折に触れ、日本の人々に思い起こされております。人生の最後の瞬間まで博愛の精神を貫いたコルベ神父や、当時の筆舌に尽くし難い苦難の中で命を失った数知れない人々に思いを致す時、あのような悲劇が、人類によって、二度と再び引き起こされてはならないとの切なる思いを新たにいたします」