信長に勝ち続けた雑賀衆の魅力とは
2014年04月05日 公開 2018年04月20日 更新
鉄砲名手揃いの傭兵集団
天文12年(1543)、大隅国(鹿児島県)種子島にポルトガル人が2挺のエスピンガルダ(鉄砲)をもたらしました。この時、居合わせた紀州根来寺の杉ノ坊・津田監物算長が、領主種子島時堯から1挺を譲り受けて持ち帰ったのが、紀州に鉄砲が伝わった最初といわれています(僧文之『鉄炮記』)。根来は紀ノ川北岸の大和街道から、根来川を西に遡った葛城連峰の山麓あたりで(現在の岩出市)、新義真言宗の根来寺があることで知られます。
津田が持ち帰った鉄砲は、根来や堺で生産され、根来寺は鉄砲で武装した一大僧兵集団となりました。同時に鉄砲は、近隣の紀ノ川をへだてた雑賀郷にも伝わります。古来、鉄製品を造る高い技術を持つ雑賀では、鉄砲の大量生産が可能でした。また黒色火薬の原料となる硝石なども、交易によって入手することができたのです。
かくして最新火器の鉄砲を大量に備え、幼少より射撃の腕を磨いてその扱いに習熟した雑賀衆は、戦いにおいて無類の強さを発揮します。諸方の大名は「雑賀の鉄砲」を求めて合戦の助力を請い、雑賀衆は鉄砲の名手が揃った戦争請負の傭兵集団となっていきました。
「蛍、小雀、下針、鶴首、梟、発中、無二…」。いずれも雑賀のガンマンたちの異名です。闇夜の蛍や小雀、細い鶴の首を撃ち抜き、梟のように夜目が利く。彼らの恐るべき射撃術を、端的に表現しているというべきでしょう。
金をくれるのであれば、傭兵としてどこへでも出かけてゆく。陽気で、酒が好きで、女が好きで、お祭り騒ぎが大好き。しかも戦えば剽悍で、桁外れに強い。雑賀衆とはそんな男たちであり、その象徴が雑賀孫一でした。
ちなみに彼らの旗印は、3本足の烏「八咫烏」です。神武天皇を熊野で導いた神で、雑賀衆は自分たちが八咫烏の子孫であるという意識を持ち、それを誇りにしていました。
そんな孫一らが、目の色を変える事態が元亀元年(1570)に起こります。本願寺顕如からの援助要請でした。2年前の永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、畿内で実権を握っていた三好家の三好三人衆らを逐う一方、本願寺顕如に対し、摂津の石山本願寺を破却して退去するよう要求していました。石山本願寺は浄士真宗(一向宗)の総本山で、各地の門徒を束ね、また全国の一向一揆と連携し、軍事力は戦国大名に匹敵するといわれます。そして現在の大阪城の場所に築かれた石山本願寺は、寺でありながら難攻不落の大城郭というべき構えでした。
信長の無理難題に顕如は近隣の門徒を集め、先手を打って挙兵に踏み切ります。この時、顕如は孫一らにも「頼みまいらせるぞ」と援軍を請うたのです。実は孫一をはじめ多くの雑賀衆が、一向宗の門徒であったからでした。
想像するに、海の男である雑賀衆は強い信仰心を必要としたのでしょう。海が荒れた時、加護を祈る対象を求めたのです。それが一向宗の阿弥陀如来でした。とはいえ、雑賀衆のすべてが門徒であったわけではありません。この時も、雑賀五緘のうち3組は、信長側に雇われて本願寺攻めに加わりました。
いずれにせよ孫一と配下の雑賀衆は、顕如の求めに応じて本願寺に馳せ参じ、以後、10年に及ぶ石山合戦を本願寺方の主力として戦うことになります。そして孫一らは織田軍団の精鋭を相手に一度も後れをとることなく、堂々と信長の前に立ちはだかりました。
神坂次郎(こうさか・じろう)
作家。昭和2年(1972)、和歌山県に生まれ。東京陸軍飛行学校、水戸航空通信学校を経て、鹿児島県知覧特別攻撃隊基地にて終戦。戦後、故郷に帰り、土木技師として24年間従事。昭和57年(1982)『黒潮の岸辺』で第2回日本文芸大賞。昭和59年『元禄御畳奉行の日記』がベストセラーになる。平成14年(2002)『縛られた巨人』で南方熊楠賞受賞。平成15年(2003)『今日わ れ生きてあり』で長谷川伸賞、文藝春秋読者賞。他の主著に『元禄御畳奉行の日記』『今日われ生きてあり』など。