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石田三成・失敗の研究~関ケ原での計算違い

瀧澤中(作家/政治史研究家)

2014年06月23日 公開 2023年01月19日 更新

小早川秀秋の忘れ得ぬ思い出

(4)の準拠勢力。

BがAに対して魅力を感じ、Aと一体でありたい、と考えるかどうか。

西軍を裏切った小早川秀秋を例に見てみたい。

小早川秀秋は、秀吉の正妻・おねの兄(木下家定)の子、つまり秀吉の甥である。三歳の時、子のいなかった秀吉の養子となるが、秀頼が生まれると小早川家に養子に出された。

幼い頃は利発だったらしいが、成長するにつれて普通になり、やがて「愚鈍」とも言うべき性格になったと伝えられている。

この、普通か、やや劣ると後世評価される19歳の若者が、52万石という大きな所領を背景に関ヶ原合戦を目前にして、「三成につくか、家康につくか」と悩んだわけである。

小早川秀秋に対する工作は、東西両軍ともに行われていた。

家康側は、秀吉の本妻であり秀秋の叔母である北政所(おね)を利用した。秀秋は北政所から、「江戸内府(家康)を裏切るでないぞ」と言われる。

他方、三成は秀秋に豊臣政権での地位(秀頼の後見役)と、領国の拡大を約束した。

小早川秀秋は秀吉の養子であった時期がある、と書いた。ということは、一時的であれ秀吉の跡継ぎの可能性があった。

このことは本人も意識していたらしく、それゆえに、三成から「秀頼さまのご後見役として」と頼まれて悪い気はしない。

さて。

報酬を与えてくれる、つまり(1)報酬勢力の面で言うと、明らかに三成のほうが秀秋に対して好条件を出したようである。だが、秀秋は三成を裏切った。なぜか。

秀秋には、忘れられない出来事があった。

朝鮮出兵の折、秀秋は奮戦して手柄を立てたのだが、秀秋の評価が高まることをおそれた三成が秀吉に対し、「秀秋は大将のくせに足軽のごとく、自ら敵陣に突入して敵を斬り伏せる行為を行った」という讒言に近い報告をした。

秀吉は激怒して、帰国した秀秋を叱責。秀秋は秀吉から褒められるとばかり思っていたら、ひどく叱られショックを受けた。

それが三成の報告のせいだと知った秀秋は、「治部少(三成)を出せ!」と大坂城内で騒ぎ、出てきた三成に本気で斬りかかろうとしたのである。

その場にいた家康がなだめて、秀秋を屋敷に連れ帰った。

するとそこに、追い討ちをかけるように秀吉の使者がやってきて、「秀秋の所領である筑前・筑後52万石を取り上げ、越前北庄15万石へ転封する」と言い渡されたのである。

秀秋は再び怒り狂ったが、家康が秀吉からの使者に、「『秀秋は仰せを承りました』、と言上願います」と告げてなんとか取り繕い、その後、家康は秀吉に話を通して、52万石取り上げの件はうやむやになったのである。

かつて、斬り殺そうと考えた三成。

所領を大幅に減らされそうになって、それを助けてくれた家康。

どちらに親しみを感じるか、言うまでもない。

 

目に見えない勢力の差

「金銀や火薬が必要ならば、要求ありしだい、すぐに秀頼さまからお送りします。太閤さま(秀吉)が蓄えられた金銀や空いている領地は、忠節をつくしてくだされば与えられます」(『古今消息集』より意訳)

これは、石田三成が信州・上田城にいる真田昌幸に宛てた手紙である。こうした手紙、あるいは一種の買収が、頻繁に行われていたと見て間違いない。

豊臣家の資産については、かなりの額にのぼっていることが知られていたから、諸大名は三成の言葉をウソだとは思わなかったであろう。しかし現実には、三成ですら豊臣家の金を自由に出し入れできず、自腹を切っていた模様である(増田長盛に宛てた手紙などで窮状を訴えている)。

ただ、本人は自腹でも、受け取る側は豊臣家からの金だと思う。となれば、誰も三成に感謝をしない。これでは金銀贈与の効果は半減である。

また、西軍に参加した大名たちの家康に対する感情も、三成のように尖鋭的に「家康滅ぼさずして豊臣家の安泰はない」とまでは考えていなかった(事実、三成が思ったとおりになったが)。

豊臣政権で実質的に政治を行っていた五奉行のうち、浅野長政と石田三成は合戦前に政権を離れていたが、残りの増田長盛、長束正家、前田玄以のうち増田と前田の2人は、戦前から家康に逐一、西軍の状況を知らせていた。

彼らを「卑怯者」と論じるものも多いが、元々、西軍に参加した多くの大名が、「できることなら、家康を中心に秀頼さまを立てて政権運営を」と願っていたのである。家康と対峙する側がこの状態では、三成の苦労も半端ではなかったであろう。

対する家康方、東軍に参加した豊臣系の加藤清正や福島正則などは、「三成を殺さずして、豊臣の健全な政治は実現できない」と確信を持っており、やる気満々なのである。

整理をすると、西軍に参加した少数の大名だけが「絶対に家康を滅ぼす」と息巻き、他の西軍諸将はそこまで強く家康滅亡を望んでいたとは言いがたい。

対して東軍は一致して、「三成、赦しがたし」で固まっていた。

現代の政治でも、意思を持たない100人が集まるよりも、強い意志を持つ5人のほうがはるかに強い力を発揮するが、関ケ原合戦時の西軍と東軍では、こうした数量化できない要素が、見た目の勢力と違う状況をつくり出していたのである。

 

自前の勢力をつくれなかった三成

黒田如水は、「関ケ原合戦が1日で終わるとは」と思ったらしいが、これは他の大名も同じ思いであったろう。

そして、仮に関ケ原の本戦が1日で終わったとしても、まだ大坂城がある。

大坂城で秀頼を戴いて抵抗すれば、東軍にいる豊臣系の大名たちは、大坂城を攻めることはできなかった。

西国に集中している西軍であったから、大坂で一戦交える覚悟があれば、まだまだ勝敗はわからなかった。しかし、大坂籠城は実現せず、西軍総大将の毛利輝元は大坂城を離れ、大坂城を目指して逃亡していた三成も捕まって、処刑される。

西軍陣営は徹底的に家康と戦う覚悟がなかったから、三成や宇喜多秀家ら「家康討つべし」の大名たちが関ケ原で敗れたことをもって、すべてが終わってしまった。まだまだ戦う力があったにもかかわらず、西軍の崩壊は防げなかったのである。

勢力として固まっていない集団は、勝てる機会が残っていても、最初のダメージで崩れてしまう。

三成は、家康がどんどん勢力を伸ばしてくる政治状況を合戦で引っくり返そうとした。しかし本来は、家康の勢力を削り、向こうにいる者をこちら側に引き寄せ、家康が弱ったところで一気に潰す(もしくは支配下に入れる)のが、本当の政治力である。

三成は、豊臣秀吉が見いだしたきわめて能力の高い人物だったが、彼はあまりにも豊臣政権の動かし方を知りすぎていた。

自前の勢力をつくらなくても、家康に代わる名目上の筆頭大老を担いで人数を揃えれば、つまりは豊臣政権を動かしさえすれば、それで家康に勝てると踏んだ。

三成の失敗はすなわち、戦意を持った戦える勢力をつくり得なかった、というところに帰結するのではなかろうか。

 

<書籍紹介>

「戦国大名」失敗の研究
政治力の差が明暗を分けた

瀧澤 中 著

「敗れるはずのない者」がなぜ敗れたのか? 強大な戦国大名の“政治力”が失われる過程から、リーダーが犯しがちな失敗の本質を学ぶ!

<著者紹介>

瀧澤 中(たきぎわ・あたる)

作家・政治史研究家
1965年、東京都生まれ。駒澤大学法学部上條末夫研究室卒。2010~2013年、経団連・21世紀政策研究所「日本政治タスクフォース」委員。主な著書に『秋山兄弟 好古と真之』(朝日新聞出版)、『戦国武将の「政治力」』『幕末志士の「政治力」』(以上、祥伝社新書)『日本の政治ニュースが面白いほどわかる本』『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか』(以上、中経出版)、『政治の「なぜ?」は図で考えると面白い』『日本人の心を動かした政治家の名セリフ』(以上、青春出版社)、『悪魔の政治力』(経済界)ほか。共著に『「坂の上の雲」人物読本』(文藝春秋)、『総図解 よくわかる目本史』(新人物往来社)など。

ホームページ http://www.t-linden.co.jp/book

あり得なかった関ケ原合戦の計算違い

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