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生き方

黒田長政・父譲りの調略で呼び込んだ関ケ原の勝利

『歴史街道』編集部

2014年10月17日 公開 2022年11月14日 更新

 

黒田長政はなぜ家康に接近したのか

 「黒田長政と蜂須賀家政は蔚山城の救援に向かったが、臆病にも戦わなかった」。慶長3年(1598)、朝鮮の役。福原直高、垣見一直、熊谷直盛ら三目付のそんな報告に接した豊臣秀吉は激怒し、長政と家政は窮地に陥った。後にこの報告は誤りであったことが証明されるが、長政は三目付及び彼らと結びつく石田三成を憎み、対立することになる。

 一方、秀吉没後もなお朝鮮にあった長政に対し、たびたび労いの書状を送ったのが徳川家康であった。家康は秀吉が逝去すると、無断で有力大名と次々と婚姻を結び、味方を増やしていた。長政だけでなく、父親の官兵衛に対して長政帰国を祝う手紙を送っているのも、その一環であろう。長政は家康に感謝し、ビロードを贈っている。さらに慶長3年12月には、長政は家康の重臣・井伊直政と起請文を交わして、お互い蔑ろにせす、秘密を他言しないことを約束した。長政は徳川家と盟約を結んだに等しく、それは三成らの勢力との対立を前提としていた。

 五大老の1人で家康も一目置く前田利家が没すると、翌日の慶長4年(1599)閏3月4日、7人の将が三成を襲った。朝鮮出兵時に不当な扱いをされたことへの復讐のためである。その中心にいたのが長政だった。三成は伏見の自邸に辛くも逃れ、徳川家康が調停に入ったことで7将は矛を収めた。

 その2週間後の3月19日、朝鮮の役での蔚山城の一件が再調査され、長政や蜂須賀家政は名誉を回復する。一方、三成は佐和山城に隠退し、政治には今後与らないことに決した。長政にすれば名誉回復と三成の失脚で溜飲を下げたであろうが、一連の中で最も得をしたのが家康であることは疑いない。

 では、長政は家康にうまく利用されただけかといえば、必ずしもそうではない。幼少より秀吉の世話になった長政だが、次の天下人が誰かを冷静に値踏みし、家康に接近した可能性がある。官兵衛が、家康と一定の距離を置いたのとは対照的だ。秀吉の天下取りを支えた父親に対し、長政は家康の天下取りを演出しようとしたのだろうか。家康は長政を信頼し、関ヶ原を迎える。

 

調略で呼び込んだ関ケ原の勝利

 関ケ原の戦いの帰趨を決したと語られる、小早川秀秋の東軍への「寝返り」。父・官兵衛譲りの調略で、秀秋の西軍からの離反を演出した男こそ、黒田長政であった。

 長政は合戦当日に至るまでに、東軍勝利の礎を着々と築いた。具体的な動きを見せたのは、慶長5年(1600)7月下旬の小山評定以降だ。この時、家康は豊臣家恩顧の諸将の動向を気にしていた。中でも不安を抱いていたのが、反石田三成の急先鋒だった福島正則の変心たった。

 もし正則が西軍につくと表明すれば、多くの武将が靡くのは確実。家康からすれば、最も避けたい事態である。小山評定後に「内府ちかひの条々」が届くと、家康は懸念を強める。正則と近しい宇喜多秀家が、首謀者に名を連ねていたからだ。

 そんな動転する家康を落ち着かせたのが、長政である。

 家康は相模厚木にいた長政を、わざわざ小山まで呼び寄せると、「福嶋は何方へ心を属し候や。秀吉にしたしき者なれば、敵方には成るまじきか」と訊ねた。「黒田長政記」によれば、長政は次のように答えたという。

 「左衛門大夫(正則)の事、御方(家康)に属し申すべしと存じ候。殊に石田と中あ(悪)しく候」

 長政は正則と固い友情で結ばれており、仲違いから和解した際には、長政は正則から竹中半兵衛所用の兜を受け取っている。そうした間柄だからこそ、「三成をあれほど嫌う正則が、西軍につくわけがない」と見通せたのだ。長政の言葉に安堵した家康は、心置きなく決戦への準備を進めていく。

 そして、長政が決定的な役割を果たしたのが、「毛利両川」の懐柔だ。長政は吉川広家と書状のやり取りを繰り返して、関ヶ原での「日和見」を約定させると、小早川秀秋のもとに頻繁に家臣を往復させた。

 黒田家と小早川家には、深いつながりがある。秀秋の重臣・平岡頼勝は長政の父・官兵衛の姪婿にあたる。すなわち、長政とは義理の従兄弟の関係である。平岡は古くから小早川家に仕えており、家中で最も発言力を持つ人物の1人だった。また、黒田家臣団の中心的人物である井上九郎右衛門之房の弟・川村越前も、秀秋の家臣であった。

 長政はこうした人脈から、秀秋に東軍に与するよう働きかけ、その動静を逐次家康に報告していたのだろう。家康からすれば、長政を通じて毛利家の動きを把握することができた。そして秀秋は、西軍のふりをして布陣するが、頃合いを見て東軍として旗幟を鮮明にすると約する。こうして東軍は、万全の態勢で天下分け目の合戦当日を迎えたのである。

 さらに言えば、長政は戦場でも出色の働きを見せた。石田三成を支えた名将・嶋左近を討ち取ったのも黒田隊だった。長政は若い頃から勇猛さを謳われており、決して調略だけの男ではない。これで東軍の優勢は決定的になったのである。

 関ケ原後、長政は五十万石を超える大大名となった。この事実が、いかに家康が長政の働きぶりを評価していたかを雄弁に物語っているだろう。

 

<掲載誌紹介>

2014年11月号

「黒田官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ。その他の九州大名の島津義弘・鍋島直茂・立花宗茂はいずれも大坂方なので、結束して官兵衛と清正を中心に東上すれば、中国地方の軍勢も加わって十万騎にはなる。これだけの大軍で戦えば、徳川家康はひとたまりもない…」。黒田長政はそんな内容を遺言状に記しました。慶長5年(1600)、天下分け目の決戦に向け風雲急を告げる中、遥か九州で情勢を虎視眈眈と窺っていたのが、「天下の軍師」黒田官兵衛です。東軍に与した官兵衛は寄せ集めの兵を率い、九州を席捲。さらに広島を奪う壮大な計画を立てていました。果たしてその狙いとは。官兵衛が最後の戦いで目指したものを探ります。第二特集は「Q&A 祇園のしきたり」です。

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