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家康も望まなかった「大坂冬の陣」、勃発の真相を探る

2015年01月05日 公開

渡邊大門(歴史学者)

『歴史街道』2014年12月号より》

「腹に一物持った狸親父の徳川家康」「息子の秀頼を溺愛する淀殿」「運に恵まれない豊臣方牢人衆」…古来、そんなステレオタイプのイメージで語られてきた大坂の陣は、信頼できる史料に基づいたものではない。むしろ史料を綿密に追っていくと、家康は、必ずしも豊臣家を滅ぼすつもりではなかったことが見えてくる。

 

ステレオタイプで語られた大坂の陣

大坂の陣に関しては、古くから編纂物、講談、小説、映画、テレビドラマなどで語られてきた。しかし、そこにはすでに一定のストーリーが「お約束」になっており、ステレオタイプで語られてきた感がある。

「狸親父で腹に一物持った徳川家康」「気弱で不運な豊臣秀頼」「能力が欠如しながら豊臣家を差配する大野治長」「息子・秀頼を溺愛する淀殿」「力がありながらも運に恵まれなかった豊臣方の牢人衆」などなどである。

ところが、以上挙げたイメージというのは、不確かな史料に基づいたものであって、必ずしも正しい姿を伝えたとはいえない。信頼できる史料に基づき、大坂の陣を検討することが必要なのである。では、なぜ大坂冬の陣が勃発したのであろうか。以下、考えることにしよう。

 

家康は豊臣家を潰そうとしたのか

慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦で西軍は敗北し、豊臣家の権力は地に落ちた。豊臣秀頼は摂津、和泉、河内の3カ国の一大名に転落し、家康と豊臣秀頼との立場は逆転した。以後の政治過程については、家康があらゆる手段を用いて、豊臣家つまり秀頼を滅亡に追い込もうとしたと考えられてきた。関ヶ原合戦における西軍の敗戦は、豊臣家を著しく弱体化させ、実質的に豊臣家が徳川家の下位に甘んじたのは間違いない。しかし、豊臣家の滅亡を家康の規定路線と考える通説に疑問を投げかけ、「二重公儀体制」を提唱したのが笠谷和比古氏である。笠谷氏の定義によると、「二重公儀体制」とは次のようになる。

関ヶ原合戦後の政治体制は、将軍職を基軸として天下を掌握しようとする徳川公儀と、将来における関白任官を視野に入れ、関白職を基軸として将軍と対等な立場で政治的支配を行なおうとする潜在的可能性を持った豊臣公儀とが並存した。こうした両体制の並存を二重公儀体制という――。

 

急速に衰えなかった豊臣家

笠谷氏は関ケ原合戦後、急速に豊臣公儀は衰えたのではなく、徳川公儀と並存する形で存続したと指摘した。つまり、東国は家康が支配し、西国は秀頼が支配するという考え方に基づき、東西が分割統治される形で両体制が並存したのである。

笠谷氏は「二重公儀体制」の有効性を補強するために、(1)豊臣秀頼に対する諸大名伺候の礼、(2)勅使・公家衆の大坂参向、(3)慶長期の伊勢国絵図の記載、(4)大坂方給人知行地の西国広域分布、(5)秀頼への普請役賦課の回避、(6)慶長11年(1606)の江戸城普請における豊臣奉行人の介在、(7)二条城の会見における冷遇、(8)慶長16年(1611)の三カ条誓詞の8点を指摘した。

ただ、「二重公儀体制」も完璧な説ではなく、形式的な側面からのアプローチになっており、実態からの分析が十分ではないといえる。

 

家康と秀忠の征夷大将軍就任

慶長8年(1603)2月12日。晴れて徳川家康は征夷大将軍に任官し、江戸幕府が成立した。家康は、武家の棟梁を意味する征夷大将軍に就任し、名実ともにその地位を不動のものにしたが、一方の豊臣家の劣勢は否めなかった。

2年後の慶長10年(1605)、家康は征夷大将軍の職を子息の秀忠に譲った。このことは、徳川家が征夷大将軍職を世襲することを天下に示したものであり、豊臣家の動揺も少なからずあったであろう。以後、秀忠は江戸城に住み、家康は駿府城に居住した。「二頭政治体制」のはじまりである。しかし、この一事をもって、必ずしも家康が豊臣家の滅亡を志向したとは考えられない。

 

秀頼と千姫との結婚

家康が豊臣家との良好な関係を維持しようとしたことは、秀頼と千姫との婚姻に見ることができる。慶長3年(1598)8月、病床の豊臣秀吉は、秀頼に家康の孫を嫁がせるよう遺言した。それを受けて、慶長8年7月、大坂城で豊臣秀頼と千姫は祝言をあげた。

家康は秀吉の遺命を受け、豊臣家に手厚く接したことは「日本耶蘇会年報」にも記されている。しかし、2人の婚姻は、家康が単に約束を履行しただけとは考えられない。当時の婚姻は政略結婚であり、同盟関係の構築を意味していた。つまり、家康は孫娘を秀頼に嫁がせることにより、豊臣家と強固な関係を築こうとしたと考えられる。

家康は豊臣家との敵対関係を避け、円満な関係を築こうとしたのが本意であったと推測される。また、豊臣家も家康に反抗せず、受け入れることが自然なことであった。したがって、2人の結婚は、両家の関係を強くする方策であり、ともに希望して実現したのだ。

iyashi

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