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原発で大混乱に陥った思想家たち

山本一郎(イレギュラーズアンドパートナーズ代表取締役)

2011年05月10日 公開 2022年11月02日 更新

原発で大混乱に陥った思想家たち


 

破壊された「無条件の信頼」

私は結婚をして、二人、倅ができた。

結婚は、今年で4年目となる。わりと最近まで、きっと天涯孤独だろうと自分の人生を予測していたが、思いも寄らぬ巡り合わせがあって家内と出会い、三十数年生きてきた私の独身生活という日常は終わりを告げた。自分でいうのもなんだが、まさかの展開であったし、結婚がこんなに幸せなものであるとは知らなかった。結婚は人生の墓場だと思い込み、自由がなくなることを過度に恐れた結果であることはいうまでもない。

そして、「その場が楽しく、自分がうまく生きていければよい」というような、独身者特有の楽観的な人生観は一変した。とにかく働いていれば楽しかった独身時代、実務的な課題に取り組んでさえいれば日々が充実していたが、あれよあれよという間に結婚し、出産を経験し、人並みの幸せというものを実感した。人生の温かみとはこういうことだったのか。

そんなものは小説のなかだけかと思っていたのに、いざ震災が起こってみると、被災者の家族の安否がわがことのように感じられた。まだ幼い子が津波で行方不明と聞くと身が切られる思いをし、原子力発電所が爆発したとなると長年暮らし慣れた家を追われた人びとのため、寄付をしようと考える。もし自分が独身のままだったら、ここまで被災地に思いを寄せたりしただろうか。なるほど、共感というものはこういうことなのかと実感したわけである。

もちろん、独身が悪いというわけではない。ただ、絶対に独り者では感じなかったにちがいないことを思うようになったのだ。自分自身が死ぬか生きるかなどは、ある種の運である。逃れようのない大損害に遭ったのなら、自分が勝手に死ぬのは致し方あるまい。だが、家内や息子は違う。自分の命を賭してでも、守り通したいと思うものができたからこそ、被災地の人びとが抱える苦悩や悲しみが自分のこととして捉えられ、共感しただけでなく、ある種の使命感のようなものをあらためて感じるのである。

同時に、今回の震災や原発事故は、私たちが無条件の信頼を寄せていた日本人的な何かも同時に破壊した。いや、東京で生まれ、東京で暮らす者としていずれ、いつか大きな地震がくるのだろう、と思わなかったわけではない。また、決してその備えが万全ではなく、安全からは程遠かったことも。やがて未曾有の大災害がきたならば、漠然と「きっと多くの人が死ぬのだろう」と思っていたし、うすうす大災害が生活に大きな打撃をもたらすことはわかっていた、頭のなかでは。
 

文字どおり現代の「赤狩り」

そういう漠然とした不安が実際のものとなり、報道は被害地や被災地の内容ばかりで、家族や友人との会話は災害の問題でもちきりとなって、だんだん話題は地震と津波から原発の爆発へと移り変わったあと、途方もない規模の損害が明らかになってきた。地震や津波は天災であり、それ相応の備えはされていたが、甚大な損害を蒙ってしまった。いうまでもなくこれは不幸であったが、原発の不始末については人災だ。人や組織やシステムが起こした問題で、当事者である東京電力や、その管理組織である原子力安全・保安院や、さらにその所轄官庁である経済産業省といった「悪党」が悪者になった。

私たちの便利な文明人生活は、なんてことはない、けっこうな不始末と不合理と無分別とが重なり合った、じつに脆い仕組みの上に成り立っていた。一つひとつの科学技術は優れていても、その運用は杜撰であったばかりか、問題が勃発してみると、しばらくたつまで東電社長の顔すら拝むことはできなかった。当然、批判は噴出する。原子力は安全と言い続けたのに、この爆発はなんだと声を揃えていう。

もちろん、そう言い募りたい気持ちはよくわかる。でもなぜ、実際に人が死んでしまった天災より、まだ人の死んでいない人災のほうが報道が大きく、人びとを不安に陥れるのだろう。

おそらく、災害を通して別の文脈の思想と事態が重なったのだ。有り体にいえば「反原発」を基点とした反政府運動の思想である。いままでは、ずっと地下に潜って静かにしていた反原発という運動が、実際に原発が爆発したと同時に、本来語られるべき震災からの復興とは別の噴煙を上げている。本来なら事態全体を一体で考えるべきところが、どういうわけか震災が置き去られ、敵は政府や東電といった「ぬくぬくと税金や既得権益で暮らしている奴ら」への闘争へと変化していく。

それはそれで心ゆくまで運動すればよい。政府方も不手際があったのだから、たしかに責任から逃れることは難しかろう。東京電力に限らず、いわゆるエネルギー関連の閉塞した界隈は、過去からつねに情報を隠し、事故にあたっては情報の改竄を繰り返してきた。そしてついに、大きな災害に直面して大事故を起こしてしまった以上、やはり何らか変遷せざるをえない。狼に襲われて大損害を蒙ってから、じつは信頼されない狼少年の言葉が正しかったのか、と反省しても遅い。

しかし、実際に被害を出して多くの人が亡くなったのは宮城であり、岩手である。マスコミのなかでも声の大きい人たちは、なぜか原発問題へと話を移してしまった。災害の復興は復興で大事だが、単純な構図をつくりあげて、みえやすい敵を叩こうとする仕組みは平常時も非常時も変わらない。かくして電力会社からカネをもらって原発は安全と吹聴した著名人・文化人リストなるものが出回るようになった。言い方はよろしくないが、文字どおり現代の「赤狩り」だ。

たしかに原発について大して詳しくもない文化人が、少なくないカネをつかまされて「原発は安全」と言い続けてきたのが問題というのはわかるが、一方、事故前に「原発はいずれ大爆発すると思うので、安全神話の片棒は担げません」とかいう著名人も、それはそれで問題だ。安心感を国民のあいだで定着させるというカラクリ自体は別に、善も悪もなかろう。

私たちが無条件に信頼の対象としていたのは、じつはこういう安全神話をつくる広報活動も含めた日本のシステムそのものだった。大災害によって瓦解はしたけれど、それでも日本人はわが国の電力供給そのものに具体的な不安を感じたことは一度もなかった。世界に冠たる電力品質をもち、瞬間的な停電すらまったくない、経済大国たる日本の経済を支える確実で完璧なインフラ。それが電力業界であり、エネルギー関連産業であった。

電力はあって当たり前。日本社会の信頼の原点はまさにこの手の「無条件の安心」であり、「安全と水はタダ」という平和ボケ日本を批判する者も、電力を支える体制に批判を加えることは、震災の日を迎えるまでついぞなかった。

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