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生き方

京での日々から窺える久坂玄瑞の横顔

『歴史街道』編集部

2015年05月22日 公開 2022年12月07日 更新

 

 元治元年(1864)7月、禁門の変で命を落とした玄瑞は、しばしば「猪突猛進」のイメージで語られることが多い。しかし、京での暮らしぶりからは、異なった一面が見えてくる。

 玄瑞が京で本格的に活躍し始めたのは文久2年(1862)からのことだが、武田勘治が昭和に著わした伝記「久坂玄瑞」によれば、当時の渾名は「お地蔵様」であったという。医者であった玄瑞は丸坊主で、加えて慈悲深い性格だったため、親しみを込めてそう呼ばれたのだ。

 玄瑞の穏やかな性格は、次の言葉からも窺える。

 「歌は心の思う事をすぐに申すものなので、どれほどよくできても、心がつまらなければ、何の役にもならないものです。心がたしかにあることで、歌をよむ人を泣かすほどになるのです」

 玄瑞は歌を好み、萩に残る妻・文にも「士の夫人ははやり歌などをうたうのは甚だ見苦しいので、暇があれば少々和歌はよみたいものです。随分と気晴らしにもなります」と、歌をつくるよう求めていた。以降、文は京の夫のもとに幾度となく歌を送り、玄瑞はそれを「ぜひ送って下さい。拙者も返歌なりとも送りたく思います」と心待ちにしていた。京で動乱の日々を送る玄瑞にとって、妻の歌はまさしく一服の清涼剤であっただろう。

 また、玄瑞は美声で詩吟の名手であり、女たちにもよくもてた。他の勤王の志士同様、玄瑞も祇園や島原などの夜の街に出かけ、同志と膝をつきあわせ、盃を交わしながら時局を大いに談じた。時には酔っぱらい、舞妓を碁盤に乗せ、片手で持ち上げる余興をしたという。そうした中で親密な間柄になったのが、なじみの桔梗屋の女性・辰路〈たつじ〉であった。

 もちろん、遊興は緊迫の日々の一端に過ぎない。ある夜、清水坂の明保野亭〈あけぼのてい〉での酒宴に出た帰り、突然、刺客に襲われた。しかし玄瑞は驚くことなく相手を睨みつけ、玄瑞と知ってのことかっ」と一喝。刺客は一目散に、その場から逃げ去った。背丈180センチをこえたともいう恰幅の良さもさることながら、日々、命の危険に哂されながら、情報収集に駆け回っている玄瑞の気迫と度胸に、刺客は圧倒されたのだろう。

 京における玄瑞は、尊王攘夷派のリーダー的存在であり、妻の実家である杉家に無心してでも京で活動する貧しい志士たちの面倒を見たという。「久坂と高杉(晋作)の差は、久坂には誰も附いて往きたいが、高杉にはどうにもならぬと皆言ふ程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく。久坂の方人望多し」とは松下村塾出身の渡邊蒿蔵の談話だが、玄瑞が人を束ねる資質と。それを実行する行動力の持ち主だったことが分かる。

 穏やかで粋な、リーダーシップの持ち主…。京での玄瑞の行動からは、そんな横顔が見えてくる。

《『歴史街道』2015年5月号より》

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