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なぜ日光東照宮は幕末の戦禍を免れ、世界遺産となったのか?

2017年03月14日 公開

河合敦(歴史研究家)

PHP文庫『「神社」で読み解く日本史の謎』より

日光東照宮陽明門

日光東照宮は誰が守ってきたのか

武田と北条の旧臣による見回り

「日光を見ずして結構というなかれ」ということわざがある。

日光東照宮のすばらしい建物を実際に見たこともないくせに、「結構」という言葉を軽々しく使ってはいけないという意味で、東照宮をたたえる語句である。

金と白と黒を基調とした極彩色の建物群は、確かに「結構」というほかに表現のしようがない。この壮麗な建物群は、将軍家光の命令で寛永11年(1634)から建設がはじまった。それ以前の建物は父親の秀忠がつくらせたものであったが、わずか20年で取り壊されることになった。ちょうど家康の21回忌にあたっていることから、伊勢神宮の式年遷宮を意識したのではないかといわれている。

東照宮の造営奉行には秋元泰朝が任じられたが、高藤晴俊日光東照宮禰宜によれば、1年5カ月の工期において延べ650万人(1日平均 13000人)が動員され、総工費は少なくとも約2000億円はくだらなかったという(『日光東照宮の謎』講談社現代新書)。

いずれにせよ、日光東照宮の文化的価値は大いに評価され、1999年、世界遺産に登録された。

だが、世界遺産に登録されるのを当たり前だと思ってはいけない。雷や火事、暴風雨などの災害から、この建物群を200年以上にわたって大切に守ってきた人々がいたからこそ、世界に誇る日本の文化財となったのである。

東照宮を守ってきたのは、八王子千人同心である。

その名のとおり、1000人の武士団である。彼らのほとんどは、滅亡した甲斐の武田氏や小田原北条氏の旧臣で、徳川家に再雇用され、八王子宿(東京都八王子市)の千人町を中心に武蔵国多摩郡(武州多摩)に配置された。千人同心は幕府の直臣でありながら、半農半士の生活を送るきわめて珍しい人々であった。

当初は、豊臣秀吉に対する抑えとして、千人同心は甲斐と武蔵の境に置かれ、甲州道中が貫通する八王子の防備をまかされた。でも、豊臣家が滅亡すると、国境警備の必要性は薄れてしまう。それにともなって千人同心の地位も低下する。たとえば八王子宿の名主たちは「宗門人別帳(現在の戸籍台帳のようなもの)は農民のためのものだから、千人同心も苗字を書かないでもらいたい」と要求している。千人同心は反発したが、最終的に幕府は「公務以外は農民である」と裁定し、同心の人別帳への苗字記載を禁じたのである。

四代将軍家綱の時代、八王子千人同心の任務は、国境防備から日光東照宮を火事などの災害から守る仕事になった。

これを火の番と呼んだが、この仕事が始まったのは慶安5年(1652)からであった。

当初は100名、50日交替で火の番をしていたが、その後、45名の半年交代というのが定番となった。

千人頭(千人同心のリーダーの1人)は、出発の半月前までに上役の槍奉行に当番の同心たちの名簿を提出し、そのうえで江戸で老中と面会して「朱印」と「伝馬証文」を受け取った。その後、千人頭は八王子へ戻って当番の同心たちに公務についての諸注意をあたえた。出立の日は、きちんと隊列を組んで八王子を出、松山、佐野を経て日光へと赴いた。

通常、八王子から日光までの行程は39里30町。3泊4日で現地に到着する。ただ道中では千人頭に伝馬2疋、同心45名にはあわせて7疋しか馬の使用が許されなかった。たったこれだけでは、半年間使用する46人分の荷物は到底運べない。このため、みんなでお金を出しあって不足する人馬をやとったのである。

火の番の担当になると、同心1人につき、三人扶持の役料が与えられた。でも出張中はやはり出費がかさんでしまい、役料だけでは生活費が足りなかったようだ。

何とも割の合わない仕事だが、役得もある。

徳川家康の霊廟をまもるという大役なので、道中で大名行列とかち合ったとき、大名のほうが道を譲ることになっていた。

じっさい、加賀藩や館林藩の大名行列が千人同心と街道でであったとき、千人同心たちのほうを先に通したという記録が残っている。いつも単なる農民として多摩地方で冷遇されている千人同心にとって、自分たちが幕府の御家人であることを実感できる瞬間だったに違いない。

日光に着いた千人同心たちは日光の宿に入り、翌朝から火事羽織を身に着けて御役宅へ出勤することになる。このおり、火事道具目録や日記帳を受け取り、在勤の千人頭へ交代の挨拶をすませて火消小屋へ入り、いよいよ半年間の火の番がはじまる。

平日の見回りは、朝四ッ時と八ッ時の2回おこなうことになっている。千人頭が組頭(一般同心のリーダー)1名と同心4名を連れ、あらかじめ決められた道を巡回していく。また、東照宮や輪王寺の境内だけでなく、日光宿も同心たちが火の用心に見回った。こうした八王子千人同心たちの働きが200年以上続いたことで、私たちは今でも世界遺産に登録されたすばらしい日光東照宮の建物を目にすることができるわけだ。

iyashi

著者紹介

河合 敦(かわい・あつし)

作家、歴史家

1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。1989年、日本史の教諭として東京都に採用され、2004年より都立白?高等学校・附属中学校に着任。2013年、東京都を退職。現在、文教大学付属中学校・高等学校教諭、早稲田大学教育学部講師。教壇に立つ傍ら、歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。「世界一受けたい授業」(日本テレビ)など、テレビ出演も多数。
主な著書に、『早わかり日本史』『早わかり江戸時代』(以上、日本実業出版社)、『岩崎弥太郎と三菱四代』(幻冬舎新書)、『読めばすっきり! よくわかる日本史』(角川SSC新書)、『目からウロコの日本史』『目からウロコの近現代史』(以上、PHPエディターズ・グループ)、監修に『日本一わかりやすい図解日本史』(PHPエディターズ・グループ)などがある。

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