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<お客様の心をつかむ>平和堂 地域密着の徹底が着実な成長に

夏原平和(平和堂社長)

2015年10月30日 公開 2022年07月11日 更新

<お客様の心をつかむ>平和堂 地域密着の徹底が着実な成長に

《隔月刊誌『PHP松下幸之助塾』[特集:お客様の心をつかむ]より》

半世紀を超えて地元住民に愛されるスーパー

 はず~むこころの~ おかい~も~の~ へ~いわど~♪ 
 多くの滋賀県民が思わず口ずさんでしまうというこの歌、スーパーマーケット平和堂のテーマソングの一節だ。昭和32(1957)年に同県彦根市で創業した平和堂は、いまや周辺府県を含めて150超の店舗(大型店の「アル・プラザ」や小型店の「フレンドマート」なども含む)を展開、売り上げ4000億円を超える大企業グループに発展した。中国湖南省にも4つの百貨店を出店し、不振にあえぐ総合スーパーが多いなか、着実に成長を遂げている。その背景には、大企業になっても、地元住民への貢献を最優先に考える経営者の強い思いがあった。

夏原平和(なつはら ひらかず)
平和堂社長。1944年滋賀県生まれ。’68年同志社大学法学部卒業、父・夏原平次郎氏が創業した平和堂に入社。’70年取締役。’75年専務取締役。’83年取締役副社長。’89年代表取締役社長、現在に至る。’90年東証一部上場。’98年中国湖南省に百貨店を出店(現在まで同省で4店出店)。2012年の反日デモで大きな被害を受けた際、周囲から身の安全を懸念されるなか現地に向かい、復旧に向け尽力したことが話題を呼んだ。

〈取材・構成 荒木さと子/写真撮影:石田貴大〉

 

名前に込めた創業者の願い。近江商人の精神も受け継ぐ

 おかげさまで平和堂は昨年度、売り上げと利益ともに前年度を上回る業績をあげることができました。これは社名にあるように、昭和32(1957)年の創業以来、お客様の平和な暮らしのお役に立つ、地域の平和に貢献する、社員に平和な生活を提供する――といったことを地道に積み重ねてきた結果であると思っています。

 社名の平和堂と私の名前「平和(ひらかず)」の関係についてよく聞かれますが、どちらにも創業者である私の父・夏原平次郎の強い願いが込められています。

 父は昭和18(1943)年、戦地の満州から滋賀県彦根市に一時帰国して結婚、その翌年9月15日に私が生まれました。再び召集令状がくるかもしれないという戦下にあって、「せめて子供の時代には平和な世の中であってほしい」という願いを込め、「平和」と名づけたそうです。

 当時、男子の名前は「勝利(かつとし)」や「猛(たけし)」といった軍国調が主流。そのなかで平和主義を唱えるような名前をつければ、憲兵に引っ張られるかもしれない。父も一旦は考え直したものの、やはりこの名前しかないと、勇気を奮って役場に届け出たそうです。

 戦後、父は百貨店の中に「夏原商店」という店を出しました。昭和32年に独立した店舗を持つようになり、「靴とカバンの店 平和堂」に改称します。それだけ平和への思いが強かったのでしょう。

 私は入社式や新店舗ができたときに行う社員編成式でいつも、なぜ「平和堂」という社名なのか説明し、創業者の思いを伝えるようにしています。「平和」はまさに、当社のキーワードなのです。

 平和堂は一方で、私たちの先人ともいえる近江商人の「三方よし」の精神も、経営に生かしてきました。売り手よし、買い手よし、世間よし。なかでも「買い手よし」、つまりお客様にどうすれば喜んでいただけるのか、ずっと工夫を重ねてきました。

 たとえば、昭和36(1961)年に始めた「ハトの謝恩券」(平和の象徴ハトが平和堂のシンボルマーク)。お買い上げ額に応じたシール券をお渡しし、台紙に貼ったシールがたまるとお買い物券を発行するという、いわばポイントカードの先駆けです。利益の一部をお客様に還元するという発想自体がユニークなものでした。

 また、「歌謡ショー」をはじめとした芸能イベントの開催など、当時としては画期的なことも行いました。まだテレビが普及し始めたころ、有名な芸能人を生で見られる機会は少なく、たいへんな人気を呼びました。現在も、こうしたイベントには力を入れています。

 「社会」と「会社」。左右に併記すれば縦横どちらからも同じに読める。社会と会社は一体のもの。社会はいろいろな会社を求めており、会社は社会の役に立たなければならない。平和堂は創業以来、地域に対して「世間よし」の姿勢も貫いてきました。こうして近江商人の精神を実践してきた積み重ねが信用につながり、好調な業績にも表れているのだと思います。

 

ヒッチハイクで海外を回る「放浪の旅」で得た自信

 平和堂はこのように、創業者である父の理念や創意工夫により、滋賀県を代表する企業に発展しました。

 一方、私自身はどうかといえば、中学生のころから父の経営を継ぐのは当然だと思っていました。彦根でずっと暮らすのだと。ただ、大学くらいは県外に出たいと思い、京都の同志社大学に進学、ひとり暮らしをさせてもらいました。もっとも、長期の休み中は店を手伝うという条件付きです。

 4年生のとき、海外に〝放浪の旅〟に出ました。先輩から、「これからは国際化の時代。海外に行け」と言われたのがきっかけです。両親に、「将来、経営をするからには自分で物事を決めなければならない。自主性のある人間になるべく、ひとりで行かせてほしい」と頼みました。母は心配したものの、父は「そうか、行ってこい」とすんなり了承してくれました。

 昭和42(1967)年7月、横浜から船でナホトカに向かい、そこから列車でハバロフスクへ。そして生まれて初めて飛行機に乗り、モスクワへ行きました。その後、レニングラード(現サンクトペテルブルク)を経てヘルシンキへ。そこからはヒッチハイクです。フィンランドは親日的だったので、大きなリュックに日の丸を描いてアピールしました。

 その後は、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを回ってフランスに。車がつかまらないときは寝袋にくるまり野宿したこともありました。フランスからは船でドーバー海峡を渡りイギリスへ。再び大陸に戻ってドイツ、スイス、オーストリア、イタリア、ギリシャと、ヨーロッパを横断し、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと、南アジアを東進。最後にインドで3週間を過ごし、バンコクを経由して12月に日本に帰国。

 5カ月半にもわたって見知らぬ海外の地を旅したことは、自分にとって見聞が広がり、大きな自信となりました。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

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