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教育の根本は自らを教育し続けること

曽野綾子(作家)

2011年07月28日 公開 2023年10月04日 更新

《曽野綾子:著『魂を養う教育 悪から学ぶ教育』より》

教育は強制から始まる

 教育というものは「幼い時」と「新しく或ることを始める時」には、往々にして強制の形を取るということを、人々は忘れがちである。それは長じた時、馴れた時とは全く別の意味を持つ。まず小学校へ上がる。これも修学の意味を理解して、自発的に学校へ行く子など例外だから、強制である。「お姉ちゃんの行くのを見ていたから」というのはましな方で、普通は何が何だかわからずにランドセルを背負わされる。私のように閉所恐怖症があったので、教室の戸が閉められると怖くて泣き続けだった子も、仕方なく馴れて学校に耐えられるようになる。
 家元と名のつくような家の子供たちは、それこそ有無を言わさぬ強制から修行が始まる。数え6歳の6月6日に初めての稽古が行われる、と聞いたことがある。
 躾 <しつけ> というものもすべて強制だ。子供はお辞儀の仕方から時候の挨拶まで、親に言われたことを、意味もわからずに渋々その通りにする。左側交通、電車に乗る時に切符を買うこと、食事の前に手を洗うこと、学校に入るのには入試という制度を経なければならないこと、すべてこれらの制度にはうんざりするような圧迫感がある。自発的に納得したのでもないが、仕方なく従うのである。
 そのうちに、お辞儀が最も穏やかで簡潔な人間関係の基本だと理解し、日本では左側交通を守らねばひどい交通事故が起きることがわかる。雑菌の多い土地に行けば手を洗う方が病気に罹らないで済む確率が高くなることを理解し、同じ程度の学力の学生が集まる方が効率のいい勉強ができることを認識するから、渋々入試制度を承認する。
 すべての教育は、必ず強制から始まる。イヌを、イヌという言葉で覚えさせるのだって立派な強制だろう。私がイヌをワニと言いたい、と主張したら、意思の伝達は損なわれ、学問の世界も混乱する。しかし異常事態でない限り、強制をいつまでも続ける必要はない。「幼い時」と「新しく或ることを始める時」に強制の形で始まったことでも、やがて自我が選択して、納得して継続するか、拒否して止めるかに至る。
 私はピアノを習わせられたがどうしても好きになれなくて中断し、小学校一年生から日曜毎に強制的に書かされた作文の練習は好みに合うようになって、作家になった。
 義務的に奉仕活動をさせられて、うんざりだ、まっぴらだ、という人は必ず出るのである。その時、その子供か青年は、自分がどのような仕事に就いて、どのような生涯を送ればいいかを明確に再発見できる。
 奉仕活動は「案外おもしろかった」という人は多いが、そのような人たちは、それをきっかけに、生涯、受けるだけでなく与えることのできる精神の大人に成長する。
 人は、快い幸福な経験からも学び自己を発見するが、不快で不幸な体験からも人生を知るのである。もちろん不快で不幸な体験が役立つからといって、ことさら戦争や病気や体を壊すほどの労役をさせようと思う人は誰もいない。

『哀しさ優しさ香 <かぐわ> しさ』(海竜社)

 戦後の教育は個性の形成、自由を行使する権利だけを教えた。教育は自発的にしたいことだけしかさせてはならない、と今でも信じて疑わない人がいる。しかし人生は複合的だ。したくないことを強制的にさせられる場面も当然あるが、その間に自然にしたいことが見えてきて、親も教師もそれをいいこととして励ましているのが、普通の光景だと思う。
 しなければならないことは強制的にさせ、したいこともさせる、その両面をカバーするのが、人間を創ることだ、とは思わなかったのである。

『ただ一人の個性を創るために』(PHP文庫)

 成長期に、特に勉強が好きでもなく、怠けるのもかなり好きだった私にとっては、好きでもない教科を学ぶことは苦痛だった。しかし私は、好きなことにはのめりこんだ。私の場合、小説家になろうと思ったのが小学校6年生の時だから、それ以来、私は学校の勉強など最低限に留めてお茶を濁し、暇さえあればいつも何か書いて.いたのである。
 子供の時に、母は私に毎日曜日に作文を一つ書くことを「強制」した。子供が自発的にしなければ、教育はだめだ、というのも一面ではほんとうだが、初めは強制がこうして効くこともある。私は日曜日毎の作文「ノルマ」が嫌で嫌でたまらなかった。が、とにかく母が恐ろしいので続けているうちに、次第に書くことが楽 <らく> に楽 <たの> しくなってきた。「楽」と「楽しい」という単語が、音は違うのに同じ字だということは、考えさせられることだ。人は多分タノシクなければやらず、同時にラクでなければタノシクないのだろう。初めは強制だったが、読書が書くことの中心に位置する哲学(のようなもの)を見つけてくれたし、表現というすばらしい世界の技術も教えてくれた。

『ただ一人の個性を創るために』(PHP文庫)

 私は古代ローマの思想家として知られるエピクテトスの言葉が一番心にぴったりくる。「行動のうち、あるものはすぐれているからなされ、あるものは事情に応じ、またあるものは秩序の関係上、あるものはいんぎんから、またあるものは世の習いでなされる」
 つまり、どうしてある大人または子供がそのことをするかなどということには、あんまり単純な答えを出しなさんな、ということである。このエピクテトスという人は、紀元50
年と60年の間くらいに生まれた人なのだが、まるで自分で用意した墓碑銘にふさわしいようなたった2行の詩を残して逝った。
「奴隷エピクテトスとしてわれは生まれ、身は跛<ちんば>、
 貧しさはイロスのごとくなるも、神々の友なりき」
 イロスというのはホメロスの『オデュッセイア』の中に出てくる図々しい乞食のことだという。こういうことを語る時に、差別語がどうのこうの、という批判は願いさげにしたい。私がこの詩を書いたのでもなく、翻訳さえもしたのではない。これを書いたのはエピクテトス自身であり、自らを差別しているように見えながら、全く差別など信じていない闊達な精神を示すことこそこの詩の目的であり真髄なのだから、ここでは差別語を使わないと彼の心は伝えられないのだ。
 教育が模倣と強制に始まり、独創性と自発性に発展する例だが、こういう体験、こういう成り行きは、決して私一人が体験した特殊例でもないであろう。

『ただ一人の個性を創るために』(PHP文庫)

曽野綾子 曽野綾子(その あやこ)
1931年、東京生まれ。1954年、聖心女子大学英文科卒業。1979年、ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章受章。1993年、日本藝術院・恩賜賞受賞。1997年、海外邦人宣教者活動援助後援会(通称JOMAS)代表として吉川英治文化賞ならびに読売国際協力賞を受賞。1998年、財界賞特別賞を受賞。1995年12月から2005年6月まで日本財団会長を務める。日本藝術院会員、日本文藝家協会理事。日本郵政社外取締役。
著書に、小説『無名碑』『燃えさかる薪』『神の汚れた手』『極北の光』『哀歌』『二月三十日』、エッセイ『原点を見つめて』「言い残された言葉』『老いの才覚』『自分の始末』『本物の「大人」になるヒント』など多数がある。

書籍紹介

魂を養う教育 悪から学ぶ教育

『魂を養う教育 悪から学ぶ教育』

曽野綾子 著
税込価格 998円(本体価格950円)
著者は東日本大震災の前から、停電など考えなくても済む暮らしが、幸運やたまさかのものでしかないことを伝えてきた。「子供を、常に苦難に耐えるように訓練しておきなさい。長く歩けなければならない。重いものも、或る程度持てなければならない。外で寝ることに抵抗を感じてはいけない。煮炊きは必ずできなければならない。泳ぎも当然必要です」...。すなわち教育とは、「生き延びる訓練」である。
世界では非業の死を遂げる子供たちがおり、その悲運は児童虐待や災害のあるわが国も無縁ではない。この世に生きることを教える一冊。

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