1. PHPオンライン
  2. くらし
  3. 真田信之、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走す

くらし

真田信之、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走す

平山優(日本中世史研究家/大河ドラマ『真田丸』時代考証)

2016年09月21日 公開 2023年03月31日 更新

真田信之、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走す

PHP新書『真田信之 父の知略に勝った決断』より一部抜粋

 

真田父子の降伏と信之の嘆願

通説によると、真田信之は、父昌幸と弟信繁に死罪を命じようとした家康を懸命に説得し、高野山追放を勝ち取ったとされる。しかし、近年指摘されるように、関ヶ原合戦で処刑されたのは、首謀者の石田三成・安国寺恵瓊・小西行長の3名のみであり、西軍に属して戦った武将も、降伏後はすべて助命されている。昌幸と信繁が処刑されそうだったというのは、信之の孝養と業績を讃えるために創作されたものだろう。ただし、高野山追放とはいえ、彼らの処置が死罪に次いで重かったのは事実である。追放処分は、八丈島に流罪となった宇喜多秀家とならぶものであった。やはり、秀忠軍と戦い、破ったことが響いたのだろう。

父と弟の赦免のため、真田信之は上洛を果たした。大坂の真田屋敷にいた家臣河原綱家らは、上田城内で焦燥しているであろう昌幸を見舞う書状を出した。それに対し昌幸は、某月(欠損による)二十二日付で上田城から返書を出し、本当ならば自分自身が上洛し、家康に謝罪したいが、それもままならない。今は、信之が上洛して詫び言を行うことになっている。

信之からの返事が来たら、そちらにも知らせることにしようと述べている。

また某月(欠損による)15日付の昌幸書状も、第二次上田合戦後から追放までの間に、河原らに出されたものである。これは欠損が激しく、判読が困難であるが、昌幸の妻山之手殿らが真田方に確保されたこと、信之が上洛したこと、そして伏見に参上したことなどが読みとれる。山之手殿らは、三成挙兵後、西軍に身柄を確保されていたから、それを真田氏が受け取ったのであろう。昌幸は、家族の無事を知り、喜んでいる。そして信之が上洛し、伏見城で家康に嘆願することになっていたとみられる。

最も有名な逸話として、信之の嘆願に、舅本多忠勝が同調し、家康を説得したというものがある。本多氏は、その後も、真田信之の嘆願を援助しているので、これは事実なのだろう。

信之は、おそらく追放処分などもない赦免を嘆願したとみられるが、結局家康は、上田城に籠城し抗戦したことを許さず、高野山に追放を命じた。かくて昌幸・信繁父子の処分が確定したのである。

12月13日、真田父子は上田城を開城し、徳川方に引き渡すと、高野山に出発した。上田城の受け取りは諏方頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らが行い、そのまま城番として城の警固にあたった。

 

父と弟の高野山追放

高野山に追放された時、昌幸は当時54歳、信繁は30代前半であった。信之は、父と弟に、家臣を随行させている。真田家の記録によると、それらは、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田角左衛門(作之丞とも)、川野(河野)清右衛門、青木半左衛門、大瀬儀八郎、飯島市之丞、石井舎人、前嶋作左衛門、関口角左衛門、関口忠左衛門、三井仁兵衛(仁左衛門とも)、青木清庵(春庵とも)の16人だったと伝わる。徳川方から、随行する家臣の人数には制限が設けられていたといわれ、このため同行を願い出て許されなかった家臣窪田作之丞は自刃したとの伝承がある。また『高野山蓮華定院書上』によれば、この他に久保田角左衛門、鳥羽木工なる人物がいたというが確認できない。さらに青柳千弥、三井豊前、高梨采女も随行しており、彼らは若殿真田大助の家老だったという。この時大助は誕生していないので、おそらく信繁の家臣だったのだろう。後に彼らは、大坂城に籠城したという。この他にも、樋口角兵衛なる人物もおり、彼は大坂城に籠城し、落城の後は上田に帰国したと伝わるが、これも確認できない(『長国寺殿御事蹟稿』)。また、追放された昌幸から、信之に出した書状をみると、これら随行の家臣名にはない人物もおり、必ずしもすべての随行員の名が判明しているわけではないことがわかる。

なお、九度山随行の家臣に対しては、信之から知行が継続して与えられていた。例えば、関口角左衛門については、慶長11年(1606)3月晦日付で30貫文が与えられているし、同じく飯島市之丞については、その配下にいた足軽は、主人が不在となったため、日置五右衛門に付属させられることとなっている。

昌幸・信繁父子は最初、高野山蓮華定院に庇護され、その後、高野山の麓、細川に落ち着いたという。まもなく、同院の仲介により、高野山惣分文殊院より許され、その麓の九度山に屋敷を構えてここに移った。元文年間(1736~1741)に高野山蓮華定院が記した覚書によると、昌幸と信繁はそれぞれ別に屋敷を構えたといい、高梨ら随行の家臣も別宅を持っていたと伝わる。昌幸屋敷は道場海東(道場垣内であろう)、信繁屋敷は堂海東(堂垣内であろう)というところにそれぞれあったという。このうち、真田昌幸墓所が設けられたのがその屋敷跡とされる。

なお、昌幸正室山之手殿は夫と行動をともにせず、上田で生涯を終えた。いっぽう信繁の正室大谷夫人は九度山で夫と合流したらしい。また側室高梨氏や三好氏も伴って、九度山に入ったと伝わる。こうして九度山での配流生活が始まったのである。

次のページ
信之、父昌幸の遺領を与えられる

関連記事

×