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生き方

雑誌の“三枚下ろし”

赤瀬川原平(作家)

2011年08月18日 公開 2023年10月04日 更新

《 月刊文庫『文蔵』2011.9 連載エッセイ「墓活のこと・第11回 本から伸びてくる未練/赤瀬川原平」より》

どうする?本の墓活

ぼくの場合はあまり本を読まない。
 本にかかわる仕事をしていながら、矛盾しているかもしれないが、読書は苦手な方である。
 いわゆる読書習慣というものがない。
 あのぎっしり並ぶ小さな文字、それをぎっしり綴じた本の分厚さを見ただけで、とてもダメだ、と打ちひしがれる。
 でも人間だから、いつの間にかあれこれ買ったり、つまみ食いで読んではいる。
 中に捨て難い本もあり、それがけっこう溜って、本棚が足りなくなったりもする。
 でも愛着の度合いとなると、カメラなどとはちょっと違う。
 本は物ではあるが、情報である。
 言葉による意味が問題なのだから、その本に限らなくてもいい、ということになる。
 つまり情報さえあればいい、ということになる。
 とはいえやはり本も物であるから、物としての個有の価値が生れていたりする。
 古書の世界になると、それが鋭くあらわれてくる。
世の中にこれ一冊しかない、となると、情報が沈んで、むしろ物が浮き出してくる。
 ぼくも古書の世界に首を突っ込んだ時期があり、標的は宮武外骨関係の、雑誌類だった。
 世の中の出版物で、雑誌はあまり残っていない。
雑誌は毎月出てくるものなので、読んだ後、捨てられる率が多い。
 週刊誌となると、なおのことそうだ。
 日刊の新聞はさらにどんどん捨てられる。
 つまりいちばん卑近な日刊の新聞からまっ先に消えていき、次に週刊誌、月刊誌、そして単行本、という順序で世の中から消えていく。
 特に官武外骨は「滑稽新聞」など雑誌上の表現が鋭く、絶品なので、ぼくははじめから雑誌集めだった。
 出版物というのは雑誌上のエキスを後に単行本としてまとめて、それが後世の書店には物として残りやすいわけだが、外骨の場合、本としてまとめられたものは、どうしても薄味である、ぼくにとっては。
 それよりも流れ出る雑誌上でその都度読者と切り結ぶという表現が、外骨の真骨頂(しんこっちょう)だった。
 とぼくは思っているが、それは人の好みにもよる。
 あまり生の表現は落着かない、好みじゃない、というタイプの人もいて、外骨に限らずちゃんと時間をかけてまとまったものの方を評価する、という向きもある。
 いずれにしろ古書の世界は、情報と物とが複雑にからみ合って、独特の価値観が渦巻いている。
 初版本マニアの世界になると、その本はほとんど情報から浮き上がって、物としてのカメラとか時計に近づいてくる。
 自分の中にそれ的な興味がないかというとやはりあって、若いころ出した本やその他で、当時は価値など考えてなかったが、何十年もたってみるとそれが珍本ということにもなり、3冊5冊と余分にあるものも、物として捨て難くなってくる。

雑誌で"三枚下ろし"にして読む

 でもやはり本は情報だ。
 むかし何かで読んだ話だが、例の「ガリバー旅行記」を書いたスイフトは、町の本屋で本を買うと、その場でハードカバーの表紙やその他をむしり取って、中身だけのコンパクトなものにして、ズボンのポケットにねじ込んで行ったそうだ。
 この話が妙に頭に残っている。
 本は情報だというと、すぐそのエピソードを思い出す。
 それがずうっと頭にあって、自分がもの書きになって家の中に出版物があふれてくると、いつの間にかそのスイフト方式を実践するようになっていた。
 分厚い雑誌の中には、読みたい記事と、自分には無縁な記事とが混在している。
 だから新刊雑誌が来たら、いつも刃物片手に対峙する。
 そして目ぼしをつけた記事のいくつかを、魚を三枚に下ろす要領で、根本の綴じた所からすっぱりと切り落す。
 そして切り出したそれらをもう一度ホッチキスで綴じると、非常にコンパクトな自分好みの読物が出来上る。
 それをバッグに入れて電車の中や、空いた時間に読んでみる。
 自分には読書習慣がないので、せっかく手許にきた雑誌が、読まずにそのまま紙資源に出されることが多かった。
 それを思えば、この雑誌三枚下ろしの方法はむしろ「読む」ことへの積極性を得ることに役立っている。
 昔はそうやって自分が読んだ「切り身」を、さらに読んだ後も保存していた。
 いずれもう一度読みたいというこんたんである。
 でも後でそれを読み返すということは、まずない。
 絶対にないといってもいい。
 イメージとしてはあるのだけど、現実はそうはならない。
 そう気づいてから、保存はやめた。
 人生時間には限りがある。
 新しい「現在」はどんどんやってきて、すべてを津波のように押し流していく。
 自分の頭の現在が、すべてだ。
 といい切れないにしても、本当のところはそうだ。
前にビデオというものがあらわれたときにも、同じことを経験した。
自分の出たテレビや、いずれ見たいというテレビ番組などが、ビデオになってだんだんと積み重なる。
 でも一度としてそれを見たためしがない。
こちらの性質としては何でもとっておくタイプなのだが、それは現実には生かされないことに気づいてしまった。
 過去のビデオを見るとすれば、人生時間が2倍必要になる。
 そんな余裕はない。
 結局は今が勝負だ。
 忘れたものは、忘れるべくして自分の中から去っている。
 いまある自分というのは鋭敏なセンサーであって、書庫ではない。
 そんな理屈もさることながら、部屋の中に「過去」が滞って身動きできない、という閉塞を切り開く必要があったのだ。
 とはいえ物を捨てるのは難しいですね。
 毎年2回古本屋さんにきてもらって不用の本を出すが、なかなか「不用」と踏み切れない。
 どうしても未練がましく引っ込めたりする。
 ぼくなど世代からいっても、美味しい物を最後にとっておく方だ。
 鮨1人前が目の前にあったとして、海胆(ウニ)があればそれを最後にとっておく。
 最後にそれを口にして、満足して終りたい。
 戦争直後のひもじい時代を知っていると、どうしても貴重なものをとっておく性質が強化される。
 でも還暦を過ぎ古希も過ぎて、人生の電池があとわずかとなってくると、海胆を最後に......、と悠長なことをいってらんなくなった。
 体力減退ということもあり、最後の海胆の手前で、せっかくだけどもう食えない、という事態が出てきたりする。
 そう気がついてから、もう最後にとっておくのはやめた。
 人生、せっぱつまれば、現在あるのみ。
 まず海胆をぱくりといって、それからマグロとかいろいろ、とにかく先のことはあまり考えずに、素直に「今」を生きるように心がけている。

赤瀬川原平(あかせがわ げんぺい) 赤瀬川原平(あかせがわ げんぺい)
1937年、神奈川県生まれ。1981年、『父が消えた』(ペンネーム:尾辻克彦)で芥川賞受賞。
藤森照信、南伸坊らと「路上観察学会」を結成。
著書に『老人力』(筑摩書房)などがある。

書籍紹介

月刊文庫『文蔵 2011.9 』

月刊文庫『文蔵 2011.9』

「文蔵」編集部 編
税込価格 650円(本体価格619円)
【特集】文系人間でも楽しい「科学小説」◎[インタビュー]高嶋哲夫「物語を通して、科学の視点から災害の実状と対策を伝えたい」◎[ブックガイド]「世界の仕組み」を教えてくれるエンタメ23冊......大矢博子
【連載小説】津本陽「忍びの者」(終)/安部龍太郎「獅子王氏郷」(終)/朱川湊人「箱庭旅団」/山本弘「UFOはもう来ない」/坂木司「山の学校」
【連載ノンフィクション】平山讓「灰とダイヤモンド」/赤瀬川原平「墓活のこと」 ほか
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