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五重塔の心柱、救世観音……聖徳太子と法隆寺の七不思議

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

2017年02月27日 公開 2023年01月05日 更新

法隆寺の七不思議と救世観音

法隆寺には、さらに奇妙な話が昔から伝わっている。

七不思議といって、「建物に蜘蛛の巣が張らない」「地面に雨だれの穴が開かない」「境内の地下に三つの蔵(伏蔵)がある」「因可池に片目のカエルがいる」といった伝承が存在するのだ。五重塔も七不思議の一つになっていて、「なぜか相輪(てっぺんの金属の飾り)に4本の大きな鎌が置かれている」のだそうだ。

実際によく見てみると、確かに9つの輪っかの下のほうに鎌が見える。伝承によれば、豊作の年には上のほうへ鎌が勝手に上っていき、凶作の年には下がっていくのだという。もちろんそんなことは現実にはないだろうが、法隆寺以外に鎌が塔の上部に置かれている例は聞いたことがない。

ただ、法隆寺の高僧で歴史学者でもある高田良信氏は、法隆寺の献納宝物のなかに奈良時代の大鎌があるので、その頃から相輪に鎌を置いていたと考え、魔物である雷から塔を守るため、刃物(鎌)を塔の頂上に置いた可能性を指摘している。

このように奇妙な伝承に事欠かない法隆寺だが、夢殿に安置されている救世観音もなんとも不思議な存在である。この観音様は、聖徳太子が生きているときにその姿をうつした等身像だと伝えられている。

法隆寺にはじつはもう一つ、聖徳太子在世中の姿をかたどった有名な飛鳥時代の仏像がある。金堂の本尊である釈迦如来像だ。薬王菩薩と薬上菩薩を従えているので、あわせて「釈迦三尊像」と呼ぶ。飛鳥文化の代表的な彫刻だから、学校で習った人も多いだろう。

私が不思議だというのは、一つの寺に太子在世中の姿を刻んだ仏像が二つ存在することではない。

むしろ、存在して当然なのだ。なぜなら夢殿は、法隆寺とは別の寺院だったからである。

そう聞いて意外に思うかもしれないが、法隆寺の境内は、金堂や五重塔がある西院伽藍と、夢殿を中心とする東院伽藍に分かれているが、もともと東院伽藍は、法隆寺とは全く異なる「上宮王院」という寺院だったのだ。

上宮とは、聖徳太子のことである。かつてこの場所には、太子が住む斑鳩宮があったという。太子の息子・山背大兄王が蘇我氏に滅ぼされた後、斑鳩宮跡が荒廃しているのを悲しんで、聖武天皇の皇太子・阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が奈良時代の天平11年(739)に創建させたと伝えられている。

つまり、夢殿を中核とする法隆寺の東院伽藍は、聖徳太子とその一族を供養するためにつくられた法隆寺とは別の寺だったわけだ。

不思議だというのは、明治10年代まで夢殿の救世観音像が白い布でぐるぐる巻きにされ、一切、人目に触れさせなかったことである。いつから布で姿を隠したかは不明だが、このような措置をほどこした理由が全くわからないのだ。

観音は夢殿の厨子内に安置され、頑丈な鍵もかけられているわけだから、わざわざ仏像本体に布を巻き付ける必要はないはず。

その理由として、観音の霊威を恐れたという説がある。

鎌倉時代の嘉禄3年(1227)、救世観音の模造彫刻をつくったさい、完成するとすぐに製作した仏師が亡くなったという記録がある。また、明治17年(1884)前後にフェノロサとその弟子・岡倉天心がおおわれている布の除去を求めたとき、法隆寺の僧侶たちは「厨子にかかる鍵を開けると、必ず雷鳴が轟くだろう。明治初年にも布を取り去ろうとしたことがあったが、天がかき曇り、雷が激しくなったので中断したのだ」と言って大いに恐れたという話が残る。

では、いったいいつから布を巻き付けるようになったのか。

すくなくとも天保7年(1836)の『斑鳩古寺便覧』には、昔から秘仏として白布で巻いていたという記録があり、先の高田良信氏は、断定を避けながらも、「元禄9年(1696)に仏像を修理して以後、布を巻いて秘仏となったのではないか」と推測している。

いずれにせよ、フェノロサと岡倉天心らは、長年巻き付けられた布を取り除く瞬間に立ち会った。

二人の回想によれば、長年使用されていなかった厨子が開くと、厨子内からは驚いた蛇や鼠が飛び出してきたという。蜘蛛の巣を払い室町時代のものとおぼしき几帳をどけると、奥にホコリが堆積した木綿で巻かれた大きな物体が見えた。

そのとき、すさまじい量のホコリが臭気とともに飛散し、ほとんど耐えがたい状況になったそうだ。苦労して長い布を取り除くと、中から金箔が美しく残る木像が現れたのである。救世観音が数百年ぶりに人びとの前に姿を現した歴史的な瞬間であった。

この救世観音のほかに、まだまだ法隆寺にはすばらしい建築物や仏像、秘宝の数々が存在する。千数百年の時を経て、このような保存状態を保っているのは奇跡に近いといえる。地理的な理由もあるだろうが、やはり日本人の、法隆寺を大切な寺院として守っていこうという強い意志がそこにあったからこそだろう。

 

※本記事は、河合敦著 『「お寺」で読み解く日本史の謎』(PHP文庫)より、その一部を抜粋編集したものです。

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