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一寸法師や桃太郎は、なぜ鬼退治ができたのか

関裕二(歴史作家)

2017年05月01日 公開 2022年07月14日 更新

一寸法師や桃太郎は、なぜ鬼退治ができたのか

わらべ歌に隠された古代史の闇

なぜ子どもは神とみなされたのか

柳田国男は、子どものあそびには太古の記憶が隠されているとしたが、たとえば、子どもに親が買って帰るおみやげも、もとはといえば、神社の御宮笥(おみやけ)であったとして、このおみやげについて、

本来は物詣りの帰りに求めて来るのが主であつて、従つてその種類も限られてをり、大体にお祭に伴ふものばかり、たとへば簡単な仮面とか楽器とか、または神社から出る記念品のやうなものであつたことは、深い意味のあることなのである。(『柳田国男全集 十二』(筑摩書房))

としているが、このような子どもと神事の近さの根源には、古来、子どもを神の子とみなしてきた宗教観が横たわっている。

ではなぜ子どもが神の子なのか。その理由は、生きとし生けるもの、すべてに神が宿るというアニミズムに隠されている。

古代の日本人は、唯一絶対の神を持たなかったが、路傍の石、山や川、雨や風、ありとあらゆる「物=モノ」の中に神を見出していた。

したがって、モノは本来物質でありながら、霊的な意味を持ち、神と同義語となったモノノケが化け物、死霊、生き霊、妖怪を意味するのは、こうした理由からである。

また一方で神は人びとに恵みをもたらしたり、逆に天災などの災難を与える存在であった。アニミズムにおける神とは、善でも悪でもなく、大自然や大宇宙そのものであり、畏敬すべきすべてを指し、人間離れをした驚異的なものを神ともみなしていたのである。

したがって、驚異的な生命力ですくすくと成長する子どもは神であり、逆に人間離れした長寿を勝ち取った翁も、また神とみなされたのである。

『竹取物語』のかぐや姫がはじめ菜種ほどの大きさで、3ヵ月で成人したとあって、しかもそれを拾い育てたのが翁であったという物語の設定には、深い理由があったことになる。

 

鬼と童子の持つ神通力

さらにこのことは、昔話に現れる鬼退治説話で、多くの場合、鬼退治に童子が活躍していることとつながりがある。

一寸法師や桃太郎はみな子ども(童子)である。大人が束になってもかなわない鬼を子どもが退治できたのは、童子が鬼に匹敵するほどの力を備えていたと考えられていたためで、童子は神であり鬼でもあった。

鬼と書いてオニと読むようになったのは平安時代以降のことであって、それ以前、鬼は「モノ」と呼ばれていた。すなわち、鬼(モノ)とは、そもそも神そのものであって、後世、オニと呼ばれるまでは、人びとから畏敬の念をもって称えられていたものである。

すなわち、鬼に打ち勝つことのできるのは、鬼のような力を持つ童子でなくてはならなかったのである。

このような現象は、中世のおとぎ話だけでなく、『日本書紀』の中にも隠されていて、古代を彩る英傑たちが鬼とみなされ崇拝されていたことがわかる。

たとえば、聖徳太子は今日多くの場で童子姿で祀られているが、これも、太子が人びとの想像をはるかにしのぐ神通力を持っていたことと無縁ではなく、そのことは『日本書紀』が記事にして残している。

用明2年(587)7月、仏教導入を促進する蘇我馬子と仏教排斥派の物部守屋は、ついに決戦にのぞむが、このとき聖徳太子は13歳で蘇我馬子の陣営に入っている。

物部守屋はここで滅亡するのだが、はじめ、蘇我馬子の兵は守屋を攻めきれず、3度退却するありさまであった。このとき、聖徳太子は軍の後方から戦況を見守っていたが、馬子の苦戦をみて、願かけを行う。

霊木を切って、四天王像を彫り、髪をたぐりあげ、「もし勝たしていただければ、必ず護世四王のために寺を興しましょうぞ」

と誓いを立て兵を進ませると、守屋勢は自ら崩れていった、という。

『日本書紀』はこのときの聖徳太子の髪型「束髪於額(ひさごばな)」にわざわざ言及している。

この髪型が古代の童子特有のものであったこと、すなわち大人たちが寄ってたかっても勝てなかったのに、ひとりの童子の神通力が勝利をもたらしたことを強調したいがためである。

 

カゴメ歌には日本人の宗教観が根ざしていた

この聖徳太子の活躍とそっくりな行動をしていたのが、世に名高いヤマトタケルであった。

ヤマトタケルの父、第12代景行天皇は、ヤマトタケルの荒々しい性格を恐れ、西方のまつろわぬ者、クマソタケルの征伐に向かわせたのだった。ヤマトタケルは厳重な警備をしくクマソタケルの館に女装してまぎれこみ、だまし討ちにする。

『古事記』は、このときのヤマトタケルを、聖徳太子と同じ童子特有の「束髪於額」であったとし、女装について、「すでに童女の姿と成りて」と、ヤマトタケルが鬼であったことを記録している。

また、『日本書紀』には、クマソタケルを討つに際し、

吾は是れ、大足彦天皇(おほたらしみこのすめらみこと、景行天皇)の子なり。名は日本童男(やまとをぐな)と曰いふ

と、自分は日本を代表する童男(童子)であると名のっている。

これを受けて、クマソタケルは次のようにいう。

吾は是れ、国中の強力者なり。是を以て、当時の諸の人、我やつかれが威力に勝へずして、従はずといふ者無し。吾多に威力に遇ひしかども、未だ皇子の若き者有らず

これによれば、クマソタケルは国中で一番の力持ちで、誰にも負けなかった。ヤマトタケルのような人物にはかつて会ったことはなかった、としている。

すなわち、まつろわぬ鬼クマソタケルに勝てるのは、童子=鬼としてのヤマトタケルをおいて他にはいなかったのである。

このように、童子が鬼を退治するのは、大人にない神通力を童子が持っていたからで、この力を見て人びとは、童子を神とも鬼とも思ったのである。

今日、神社や寺でお稚児さんと呼ばれる児童が重視されるのは、童子を神(鬼)とみなしていた名残なのである。

このように、子どもが神の子とされ、子どもが神あそびをしていた理由を深く追究してみたのは、カゴメ歌の裏側に、太古から続く日本人の宗教観が深く根ざしていた可能性を探りたかったからにほかならない。

伝統的な子どものあそびの中に、意外な側面があったこと、その歌詞の中に籠やら亀やら、いかにも秘密めいた暗示が隠されていたことに、興味を覚えずにはいられなかったのである。

 

※本書は関裕二『わらべ歌に隠された古代史の闇』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集しております。

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