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小早川秀秋の関ケ原での優柔不断、その後の乱行は、すべて病気のせいだった!?

2017年06月16日 公開

若林利光(脳神経外科医)

戦国武将の病が歴史を動かした

遅れに遅れた寝返り

関ヶ原の戦いの最中、小早川秀秋の寝返りがあまりに遅いのに腹をたてた徳川家康が、秀秋に寝返りを促すための最後通牒として、秀秋が陣取った松尾山へ一斉射撃をさせたといわれている。

この時、家康の陣は当初の桃配山から陣を移していた。松尾山の山頂から桃配山までは約3.6キロメートルだが、移動後は松尾山に近くなり、実際に鉄砲を撃ったといわれる場所からは、約1~2キロメートルという説がある。当時の鉄砲の射程距離はせいぜい300~500メートルだから、家康の陣から発砲しても、とうてい秀秋の陣まで弾が届かなかったのは明白だ。そのため、家康による秀秋恫喝の鉄砲発射はなかったのではないかという疑問が生ずる。

しかし、鉄砲の音は聞こえたのではないか。音が届けば発射があったことを秀秋に気付かせる効果があるのは当然だ。ところが乱戦の最中では、鉄砲の音は戦場全体の騒音にかき消されて判別できなかった可能性が高いという説が近年出てきた。残るは鉄砲隊の兵士が見えたかどうかだ。また、その銃口が秀秋軍に向けられているのが見えたかということが重要となる。2キロメートル前後の距離であれば、標高293メートルの松尾山の山頂からなら、自陣に向けて銃をかまえている鉄砲隊は見えたと考えられる。横並びに隊列を組んでいたり旗指物をさしていたりすれば、なおさら明瞭に見えたことだろう。秀秋自身に見えたかどうかは別にして、少なくとも視力の良い物見には見えたと考えられる。このような、秀秋恫喝のための鉄砲発射があったかなかったかは別にして、秀秋の寝返りが遅れていたのは事実だ。家康のいらだちは頂点に達していたことだろう。

問題は、なぜ家康がじれるほど秀秋の寝返りが遅くなったのかということだ。稲葉、平岡という秀秋の家老二人が結束して内応の手はずを決めていたのだから、徳川への忠誠を示すためにも、もっと早く寝返っているのが当然であった。

最後の最後までどちらが有利かを見極めた上で勝ち馬に乗ろうとした究極の日和見だという説があるが、寝返りの遅れは戦後処罰の危険と隣り合わせのものであった。小早川家の家老たちは、後に秀秋が亡くなり小早川家が断絶した後も厚遇を受けるほど家康から信頼が厚く、東軍の黒田長政とも縁が深かった。そんな彼らにこの時に戦況いかんで西軍に乗り換えるという気概があったとは到底考えられない。

ゆえに、問題は秀秋にあったとしか考えられない。戦況が東西互角のため最後まで両軍の品定めをしていたのであろうか、それとも、別の理由で決断できなかったのであろうか。まわりがガチガチの徳川派なのに、それに逆らって最後まで戦況を見極めて有利な方に乗り換えようとするほど豪胆な秀秋なのか、それとも、他の理由で決断できずにずるずると時を空費していた秀秋なのか。豪胆な秀秋であれば、戦後、酒におぼれて数々の悪名伝説を残すようなことはなかったであろう。いずれにしても、普通では考えられないほどの決断の遅さであった。

 

秀秋乱行伝説

関ヶ原の戦い後、小早川秀秋には種々の乱行伝説がある。『備前軍記』によれば、

「秀秋は時々狂気の振る舞いをし、尋常ではない行動が多くなった。乱行は月日を追うごとに増していき、10月18日に死んだ」

とある。また、

「世間的には痘瘡で死亡と披露されたが、今もその横死の真相を伝えるものがない」

として、その死因に疑問を呈し、以下の4つの説を記している。

1)鷹狩の時、ある農民を捕らえ、刀で体を切り刻んだところ、農民が怒って秀秋の股間を蹴りあげ秀秋は即死。
2)訴えを起こした山伏を取り調べもせず両手を切断。怒った山伏が秀秋を踏み殺した。
3)小姓を手討ちにしようとして、逆に返り討ちにあった。
4)殺生禁断の川で鯉や鮒を捕らえ、その帰りに、橋の上で落馬して死亡。

死因は別にしても、それぞれの前に書かれている秀秋の行為はいずれも異常だ。

このような乱行伝説と呼んでも過言ではない話は、秀秋の死後、小早川家を断絶させた徳川方が自分たちの処分を正当化するために、ことさら秀秋の悪逆非道を喧伝するための作り話だという説がある。豊臣秀吉により粛清された関白・豊臣秀次をおとしめるために、その悪行を並べたてた殺生関白の話が流布されたのと同様だというのだ。しかし、表向きは秀秋に子どもがなかったための小早川家断絶ということで決着しているので、そこまでする必要があったのかどうかは議論のあるところだ。

しかし、秀秋が亡くなると、備前28万石は家康の二女・督姫と姫路城主・池田輝政の間にできた池田忠継のものとなった。池田忠継は家康の孫である。すると、身内の者に領地を与えるために小早川家を断絶させたという噂がたつことも考えられる。それをおそれた徳川家が、前の領主である秀秋の悪評を故意に流した可能性はあるかもしれない。

しかし、これらの乱行伝説は別にしても、秀秋が自分に諫言した家臣の杉原重政を上意討ちにしたのは事実だ。これは少なくとも「まともな所業」とはとても言えない。また、秀秋に長年仕えた家老の稲葉正成が出奔したのも不自然なことだ。

『備前軍記』の秀秋の行動があまりに常軌を逸しているので、『備前軍記』の信頼性を疑う人もいる。しかし、記されたとおりではないにしても、種々の異常行動があった可能性は否定できない。幻覚、妄想、興奮などが出現し、秀秋が正常な精神状態ではなかった可能性が高いからである。異常行動があったとしても少しも不思議ではなかったのだ。

iyashi

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