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生き方

なぜマインドフルネスは悩みや苦しみを解決できるのか

菱田哲也(経営共創基盤パートナー)・牧野宗永(チベット密教修行者)

2017年07月04日 公開 2022年03月04日 更新

「あるべき姿」ではなく、「現在の自分」に手をつけよ

牧野 菱田さんもおっしゃったように、「理想のあるべき姿」と「現在の自分」という二つの軸がありますよね。ギャップを解消するときに、どっちから先に手をつけなくてはならないかというと、あるべき姿ではなく、「現在の自分」です。

現状をしっかりと認識し、そのあるべき姿にどうして憧れているのか、なんでこうなりたいのかがわからなければ、設定そのものが現在の自分にとってよいことなのかどうかも判断はできなくなります。

そうなると盲目的な信念を持つことになり、どんなに周りがやめたほうがいいとか、こうしたほうがいいとか理にかなったアドバイスをしても聞く耳を持たなくなってしまいます。菱田さんはギャップの解決法を三つ提示されましたが、そのどれであっても「現在の自分」をしっかり認識しなければ、そこにどんな理想を想定しても「妄想」になってしまいます。やはり「あるべき姿」「理想」のほうではなく、現状の自分がどうなのかということを最初に客観的に認識することに取りかからないとダメだと思います。

実は、2500年前にお釈迦さまもまったく同じことを考えました。「どうして自分は幸せではないんだろう? 自分が目指す理想と現在の自分のあり方にはどうもギャップがあるぞ」と。そんなときお釈迦さまは、理想のほうから取りかかるのではなく、「今ここにある自分」をもう一度考え直したんです。

西洋的な価値観で成り立っている現代社会に生きていると、自分がまずあって、そして周りのものがある……これは当たり前のことですよね。自分の外のものを一つひとつ疑ってみると、本当にあるかどうかたしかめようがないけれど、最終的にこうして疑っている自分だけはいる。つまり、デカルトが言った「我思うゆえに我あり」という発想です。

ある人の視点や認識を中心に、そこから世界を見つめ直そうとするというのが科学的な世界の一般的なとらえ方ですが、仏教は違います。「思う我」の「我」についても本当にあるのかないのか、これも疑ってみようというところからお釈迦さまは考えました。

つまり、我思うゆえに我から先に認識のメスを入れる。これが仏教なんです。我々は普段はどちらかというと、行動とか認識の主体となっている自分というのは、前提としてあるのが当たり前のことだから、「我」という部分を取り立てて考えたり、フォーカスして見つめようとはしないんですね。

でも、仏教というのは、まず外よりも中、内側、スタートラインの「私」がどういうものなのかということを最初に理解しようとするわけです。それを徹底的に理解することによって問題を解決しようとしたのが、お釈迦さまなのです。

チベット語では、仏教徒のことを「ナンバ」と言います。それに対して、仏教徒以外のことを「チバ」と呼んでいます。「ナンバ」は内側という意味で、内側にフォーカスする宗教、それが仏教だということなんですね。
それに対して、たとえばキリスト教やイスラム教の世界観は、唯一の創造神が世界をつくり、その神は我々の外に実在するわけです。そうすると、一番大切なのは内じゃなくて、外の神なんですね。審判の日には、神が世界をつくり直して新しい世界ができますとか、そうしたときに、そこに入れる人と入れない人が現れるが、それは神さまがお決めになるとか、世界の成立や救済の要因を外にいる神に求める。それらを「チバ」、外に向かう宗教と呼んでいるのです。

お釈迦さまは、「納得がいかない」という状況において、まずは「自分は何なのか」を突き詰めて考えることから出発したわけです。自分は、どんな考え方を持っていて、どんなキャラクターなのか、そもそも自分とはいったい何なのか。その問いを漠然とではなく、徹底的に客観的でロジカルに解明しようとした。そういったお釈迦さまのDNAを持つのが仏教なんです。

菱田 実際、仕事の現場でも、自分のことに対して客観的認識ができていない人はパフォーマンスが悪いですね。自分の能力や癖や自分が置かれている相対的位置や環境など、現状の客観的把握ができていないと、知識やスキルがあっても、それをうまく使いこなせないケースがよく発生します。よい道具はたくさん持っているけれど使いこなせないということもありますし、不適切な道具を持ち出したりすることもあります。現在地が間違っていれば、合理的な移動手段を選んだとしても到達地点が想定していたところと違うというようなことが起こるということです。

逆に、多少知識やスキルが欠けていたり、不得意分野があったとしても、そのことをよく認識している人は、足りないものをなんらかの手段で補おうとするため、失敗することはあまりないですし、逆にパフォーマンスが高いということもよくあります。

牧野 論理的な思考ということができても、出発点がずれていたら台無しですから、やはり、まずは現状に対する認識力がないとダメですよね。仏教ではこのようなことを四聖諦や八正道といって提言しています。

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