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占守島の戦い~最前線の真実

相原秀起(北海道新聞函館支社報道部長)

2017年08月08日 公開 2022年06月28日 更新

占守島
占守島、四嶺山麓の草地の中の97式中戦車改

(写真提供:相原秀起氏)
 

最前線の戦場の真実

戦後71年という歳月が流れて、占守島で戦った日ソ両軍の元兵士たちは高齢化し、2015年には北千島慰霊の会の事務局長だった武蔵哲(たどる)が他界。2016年の札幌・護国神社における48回目の慰霊祭に参加した元将兵は、同会副会長の小田英孝一人となった。

元参謀で同会長だった長島厚、豆タンの日野宇三郎も2015年に亡くなった。占守島に配属された豆タン5期11人のうち、国内に生きているのは小田英孝と綱嶋正己の2人だけとなった。国端崎陣地を死守した野呂弘も島を再訪したいという願いはかなわず、2016年にこの世を去った。

占守島の戦闘は、当時、日本領だった千島列島に侵攻してきたソ連軍に痛打を浴びせた日本軍最後の戦いとして語られることが多かった。また、ロシアでは千島列島を日本の軍国主義から解放した戦いの象徴としてとらえられていた。

私は、実際に戦闘に加わった最前線の日ソ両軍の兵士たちはどのような現実を見てきたのか、3年近くをかけて訪ね歩き、インタビューを重ねてきた。幸運にも小田のようにいまも記憶が鮮明な方に出会うことができた。

驚いたのは、それぞれが占守島で自ら体験し、見てきたことを克明に覚えていて、いまもその戦場で負った心の傷が癒えていないことだった。

日ソ両軍のどの兵士も敵兵を殺したという凄惨な体験は、いずれも何度目かのインタビューの最後に語ってくれた。

秋田県に暮らしていた野呂は「父さん、いつも話していたあの話をしてあげたら」と、娘からそっと促されて、ぽつりぽつりと国端崎の陣地でソ連兵の命を奪ったことを話してくれた。きっと苦い思いをかみしめての吐露だったことだろう。

「占守を訪ねたい」と何度も繰り返す野呂に対し、私は「失礼ですが、野呂さんは人生の終盤を迎えた中で、あの国端崎にもう一度立って、死んでいった戦友と、野呂さんが命を奪わざるを得なかったあのソ連兵を慰霊して、自らの気持ちの整理をしたいのではないですか」と尋ねた。野呂は目を伏せて小さな声で「そうでやんす」と答えた。その言葉を聞いたとき、野呂は70年もの間、ずっと重い十字架を背負い続けてきたのだと痛感した。小田も、あの四嶺山の麓でソ連兵を切ったときの手の感触がいまも忘れられないとつぶやいた。「占守の夢を見なくなったのはそんなに昔のことではないのですよ」。

幌筵島で会った元ソ連兵のコルブトも、インタビューの最後で涙をにじませながら、「私はあの日、3人の日本兵を殺しました。許してほしい。でもこれが戦争なのです。あの日、死んでいった親友たちのことを忘れた日もありません」と絞り出すような声で語った。

当事者以外は「遠い昔の出来事」として片付けてしまうが、まさに戦場で敵兵を殺し、戦友を殺された最前線の兵士たちにとっては深く脳裏に刻みつけられた記憶であり、戦後70年余という薄皮をはげば、まだその下からは血がにじむ、決して癒えない傷であると知った。

私は、これが最前線の戦場の真実だと気づいた。戦場とはそれほどまでに過酷で、テレビドラマや映画の一場面のようなものでは決してなく、人が血を流し、見知らぬ人と殺し合い、一生背負わされる傷を負う場所だった。

 

 

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