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幕末の相撲界で起きた「大謀反事件」 三役目前で“脱走”した初代・高砂

谷口公逸(大相撲史研究者:たにぐち・こういつ)

2019年11月12日 公開 2022年04月01日 更新

 

相撲会所の「搾取」に怒り! 三役出世を目前にして起こした“脱走事件”

その後順調に累進し、明治元年(1868)11月に十枚目(=十両)、翌2年11月、ついに幕内(前頭七枚目)に上った。新入幕のこの場所は、大関鬼面山(後に横綱免許)には敗れたが6勝1敗2分の好成績をあげた。

以後躍進を続け、明治4年3月には自己最高位となる前頭筆頭に上り、綾瀬川山左衛門との一件(主君へ裏切った綾瀬川に対して、高見山は忠義を貫いた)で酒井侯より「高砂浦五郎」を拝命。

さらに明治6年4月まで負け越すことはなかったが、上が詰まっていたため、五場所連続で筆頭に留まった。元来、三役(大関・関脇・小結)は東西に一名ずつが原則で、当時は大関が最高位、「横綱」とういう地位はなく、番付にも記載されていない。

結局、この場所を高砂は七勝一敗一分の好成績を残して尾張、美濃方面の巡業へ旅立った。そんな順風満帆、三役も時間の問題と思われていたその頃、後に大相撲史に刻まれる大事件が起こる事になる。

高砂は生来義侠心が強く 当時の相撲会所いまの相撲協会を牛耳っていた年寄玉垣額之助(筆頭)、伊勢ノ海五太夫(筆脇)の専横ぶりと金銭管理の杜撰さ、すなわち興行収入の大半は年寄が懐に収め、力士へは満足な分配をせず、十両関取でも些少の小遣銭が与えられる程度で巡業の道中先々でも惨め極まり無い過酷な状況であったという。

加えて年功序列に根付く番付昇降の不公平感に対する憤りがついに爆発、慶応四年(1868)6月、幕下で高見山を名乗っていた頃、彼自らが旗頭になって、力士仲間二百数十名を引き連れ、脱走を企てたことがあった。

しかし、その時は仲裁が入って、幕下連の待遇改善を約束させ事なきを得た。だが5年の歳月が打ち過ぎても約束は果たされぬままであった。

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“相撲協会”離脱からの新団体設立も…

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