2009年11月10日 公開
《『Voice』 2009年12月号より》
誠実さとフェアネス
いまや世を挙げて「勝間和代」ブームである。
このところ、彼女の名前をメディア上で目にしない日はないといってよい。新聞、テレビ、ラジオなどにおいて、彼女の存在感は圧倒的なまでに際立っている。書店に行けば彼女の本はいつでも平積みで、場合によっては「勝間和代コーナー」が設けてあったりする。
聞くところによれば、彼女の人気は熱心なファンによって支えられているらしい。30代前後のOLを中心に「カツマー」と呼ばれるファン、もしくは「信者」が急増しつつあるという。
そもそも「勝間和代」とは、いったい何者なのか。
最強のワーキングマザーにして、現在最も人気のある経済評論家。一応これが、最も簡単な肩書ということになるのだろうか。もっとも、その活動のフィールドは多岐にわたるため、簡単には要約しにくいのも事実だ。
勝間氏は1968年に東京に生まれた。よく知られているのは、大学2年生の19歳で公認会計士試験二次試験に合格したというエピソードで(三次試験は23歳で合格)、これは当時の最年少記録であるという。慶應義塾大学商学部を卒業。21歳で第1子出産。アーサー・アンダーセン、JPモルガン・チェース、マッキンゼーなどの勤務を経て、投資顧問業および経営コンサルタントとして独立。現在は、株式会社監査と分析代表取締役、内閣府男女共同参画会議議員、中央大学ビジネススクール客員教授としても活躍中であるという。
彼女の公式ホームページには、これまでの華々しい受賞歴が記されている。以下そのまま転載しよう。
「ウォール・ストリート・ジャーナル『世界の最も注目すべき女性50人』選出。エイボン女性大賞(史上最年少)。第1回ベストマザー賞(経済部門)。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leaders」
「少子化問題、若者の雇用問題、ワークライフバランス、ITを活用した個人の生産性向上、など、幅広い分野で発言をしており、ネットリテラシーの高い若年層を中心に高い支持を受けている」
「著作多数、著作累計発行部数は270万部を超える」
ネットについては、ホームページやブログ(「私的なことがらを記録しよう!」)はもちろんのこと、最近はtwitter呼ばれるサービスに参加し、知り合いの芸能人も誘うなど、新しい動向にも貪欲に対応しようとしている。
ネット活動で少々驚かされるのは、彼女がエゴサーチを行なっていることを隠そうともしないことだ。エゴサーチ(ego searching)とは、インターネット上で、自分の名前やペンネームで検索をかけ、自分自身の評価を確認する行為を意味する言葉である。個人情報の漏洩や誹謗中傷のチェックのためにやっておくべきという意見と、インターネット依存の症状の1つと見なす意見とがある。私もやったことがないとはいわないが、というかネットが使える物書きならやらないわけがないのだが、あまり大っぴらに書ける話ではない。
しかし彼女は、毎日のようにエゴサーチを行ない、自分の名前が出てくるブログや2ちゃんねるのスレッドをチェックして自分の「メンタル筋力」を鍛えているのだという。さる著名ブロガーが、ちょっと勝間氏に批判的な記事を書いたところ、間髪を入れずコメント欄に彼女が登場してやりとりが始まったのには驚かされた。もちろん反論のためではなく、丁重に誤解を解くため、であったようだ。ほとんど一刀両断めいた書き方をしていたブロガー氏も、ご本人の降臨とあってはトーンダウンせざるをえない。ネット上での「陰口」は実質的に不可能なのだ、と思い知らされた一幕だった。
この一連のやりとりには、勝間氏の誠実さとフェアネスがよく表れている、ともいえる。そう、この点について私は確信をもっている。私はまだ勝間氏とは面識がないが、「勝間和代」という個人は、間違いなく誠実で魅力的な1人の女性であるはずだ。メディアによるフレームアップと、勝間氏個人の実像とに少々落差があったとしても、それは彼女の責任ではない。少なくとも勝間氏に「じつはとんでもない裏の顔が……」みたいな実態があるとは私は考えたことはないし、万が一そんな報道がなされたら、むしろ意外の感を抱くだろう。
しかし、そうした個人的評価はひとまず措いて、「勝間和代」現象において消費されている勝間氏のキャラクターイメージについては、さまざまな問題があるようにも思う。本稿ではその「問題」について検討してみたい。ただし、この記事に批判的なトーンがあるとしても、それは勝間氏という個人の評価とは直接には関係がないことを、あらかじめ断っておく。
徹底した「情報幻想」ぶり
「勝間和代」の新しいところは、自己啓発のツールとして、グーグルをはじめとするITの効能を徹底的に打ち出しているところではないだろうか。
知的生産や情報整理の手法として、パソコンやITを活用する手法なら、部分的には山根一眞氏や野口悠紀雄氏がかつて展開していた。しかし成功のため、ポジティブに生きるためにITを活用しようという主張には、ありそうでなかった目新しさがある。
この主張の根幹にあるのは、すべては情報であり、情報の新陳代謝を活発化することこそが幸福の鍵である(彼女がそういっているわけではないが、私にはそう聞こえる)という「情報幻想」だ。
その「情報幻想」ぶりについては、彼女が主張する「情報のGive5乗の法則」(自分から情報を発信すればするほど、良質の情報が集まってくるという法則)や「フォトリーディング」(速読術の一種)の勧めをみるだけでも十分だろう。
ちょっと問題に感ずるのは、こうした情報の発信において、ときどき意外な間違いが放置されている点である。どうやら勝間式の情報咀嚼法は、さまざまな情報の複雑さをスッキリ刈り込んで、とにかく伝播しやすい形で「Give5」されることになるらしい。正確な情報なら見返りも期待できようものだが、いい加減な情報の周囲には良質の情報源が集まるのかどうか、他人事ながら心配である。
そうした間違いのうち、私が「これはちょっと……」と思ったケースを挙げておこう。
すでに多くの指摘があるが、たとえば彼女による仏教の「三毒」解釈は、非常に独特である。彼女は「怒る、ねたむ、ぐちる」という、いわば三毒の俗流解釈を真に受けて「怒らない ねたまない ぐちらない」という言葉をワープロで打ち出して職場の机に貼っておいたという。
彼女によればこの手法は、「潜在意識のいいところを活用し、運を実力にするために、とてつもなく効果が高い方法」として、「やみつきになるほどの効果」があったとのこと(『起きていることはすべて正しい』ダイヤモンド社)。勝間氏はこの「三毒」を、発想法メソッド「NM法」を発明したことで知られる中山正和氏の著書で知ったと書いている。
しかしその後、専門家をはじめ多くの人が、「仏教の三毒」としては間違った解釈であることをネット上で指摘している。
本来の三毒とは、「貪・瞋・癡」と呼ばれる3つの煩悩を指す。具体的には「貪:貪欲ともいう。むさぼり求める心」「瞋:瞋恚ともいう。怒りの心」「癡:愚癡ともいう。真理に対する無知の心」である由。もちろん「愚癡」=「愚痴」ではない。
ちなみに勝間式三毒である「怒る、ねたむ、ぐちる」は、3つともここでいう「瞋」、すなわち「怒りの心」に含まれることになるらしい。
「自分をグーグル化」しているはずの勝間氏が、こうした指摘を目にしていないはずはないのだが、なぜかいまだに訂正もなく「私の三毒」ではなく「仏教の三毒」とされつづけている。不可解といえば不可解な行動だ。精神分析的には「否認」(あるのに、ないと言い張ること)とも取れる態度である。
仏教の教えにおいて、「煩悩」をいかにコントロールするかは重大なテーマである。しかし、勝間流の三毒追放が何をめざしているかといえば、「年収10倍アップ」ないし「効率10倍アップ」である。そのことの是非はともかくとして、これらは仏教的にはどう考えても「貪欲」そのものではないか。
こうした姿勢は、いわば己の煩悩を効率よく追求するために仏教の考え方をつまみ食いするという、仏教徒ならずとも首をかしげざるをえないような内部矛盾を抱え込んでいるのではないか。ならば「仏教の三毒」などともったいをつけずに、「金持ち喧嘩せず」とでも居直ってくれたほうが、よほどすがすがしいように思うのだが。
「弱さ」を口にできない立場
現時点で、「勝間和代」に対する最大の批判としては、香山リカ氏の『しがみつかない生き方』(幻冬舎新書)がある。皮肉なことに本書はベストセラーになってしまい、それまで「ベストセラーが出せない」と愚痴っていた香山氏の願いを「勝間和代」が叶えてしまうという奇妙な事態を招いてしまった。
それはともかく香山氏は、本書で次のように書いている。
「私は、『がんばれば夢はかなう』とか『向上心さえあればすべては変わる』といったいわゆる“前向きなメッセージ”を聞くたびに、診察室で出会った人たちの顔を思い出して、こう反論したくなる。『あの人はずっとがんばっていたのに、結局、病気になって長期入院することになり夢は潰えたじゃないか』『両親とも自殺して、育ててくれた祖父が認知症になっている彼女が、どうやって向上心を出せばよいのか』」
私の担当している患者には勝間本の読者がほとんどいないので、香山氏が指摘するように勝間本を読んで「うつ」になっている人にはまだ会ったことがないのだが、勝間氏の本を読んでいると、たしかに「人間の弱さ」「だらしなさ」「理不尽な宿命」といった、人間性の重要な一部への配慮がきれいさっぱり切り捨ててあるように思われてならない。
そんななか、雑誌『AERA』が、勝間vs香山対談を企画したとのことで、さっそく読んでみた。いきなり冒頭からこんな応酬である。
「勝間 香山さん、家事は好きですか? / 香山 好きじゃないです、全然。/ 勝間 私、好きなんです。洗濯物がパリッとなったり、お皿がピカピカになったりするプロセスが大好き。自分の行動で物が変化するって、楽しくないですか。だから私、ご飯を食べて『ああ、おいしい』と思うだけで毎日が幸せです。今日も昼間、子どもの友達とお母さんたちがうちに遊びに来たんですが、デリバリーでとったサンドイッチがおいしくて、幸せでした。/ 香山 ご飯で幸せになれるんだったら、別に仕事で成功したり、資産を増やしたりしなくてもいいんじゃないですか。」
香山氏の指摘は、鋭い突っ込みというよりは、「ナイスボケ」的な皮肉が込められている。しかし香山氏はわかっているはずだ。勝間氏はもはや、こういうベクトルでしか発言できないキャラクターをつくり上げてしまっていることを。そう、彼女はもはや、現在形で「自分のダメさ」や「弱さ」を公式の場ではけっして口にできない立場にいるのだ。全国におそらく数十万人はいるであろう「カツマー」を失望させないためにも。
それにしても「起きていることはすべて正しい」といった究極のポジティビティは、何かに似ていないだろうか。私は不謹慎ながら、新興宗教の教義を連想してしまった。
「勝間和代ブーム」を、一種の新興宗教であるとする論調は、すでにブログなどを中心にちらほらと見受けられる。カリスマ的な教祖がいて、教祖のイコンが流布していて、教義が書かれた教典があって、メディアを通じて教祖のご託宣が伝えられ、信者がそれに群がるさまは、たしかに宗教めいて見えないこともない。
なぜ伝統宗教ではなく新興宗教なのか。先ほども述べたとおり、勝間氏の「教え」は、あくまでも「年収アップ」や「生産性アップ」という「現世利益」のためにある。この世で少しでも幸福になるために、まずあなた自身の認識の構造を変えましょう、という方法論は、新興宗教でなければ自己啓発セミナーのそれである。
ただし宗教と異なる点は、勝間氏自身に独自の思想や主張があるようには見えない点だ。いや、もちろん彼女自身は、いろいろなところで自らの「政治的使命」を表明してはいる。たとえば「働く母親たちを支援したい」「少子化を何とかしたい」「女性の社会参加の門戸を広げたい」など。最近ではこれに、ベストセラー作家が連帯して印税の20%を発展途上地域に寄付しようという「Chabo!」なるプロジェクトが加わっている。
だから彼女の生き方は明快そのものだ。何のためにメディアに露出し、そこまでして自著を売りまくろうとするのか。そう問われれば彼女は答えるだろう。自らの社会的影響力を高めることで、先に述べたような社会的使命を1日も早く達成することが夢なのだ、と。それ自体については、まったく文句のつけようもない。人の揚げ足を取るような文章を書くよりも、数段素晴らしい営みだ。きっと彼女はやってくれるだろう。そのうち政界進出などもありうるかもしれない。
しかし私の濁った目には、彼女の主張とその目標とのあいだに、微妙な乖離があるように見えてしまう。多くの新興宗教も、平和とか福祉とか、誰も文句のつけようのない社会貢献を旗印に政治に影響力を与えようとするではないか。そこに漂う奇妙な居心地の悪さの正体は、「自分を変える」ことと「社会を変える」ことの方法論が、決定的にすれ違っていることに起因するのではないか。
なるほど勝間氏自身は、自己変革に成功して、その「パーソナル資産」を社会変革に向けられる立場に到達しえたのかもしれない。しかし著書を読むかぎり、勝間氏の影響力は、圧倒的に「自己啓発」に比重が置かれている。彼女の主張のオリジナルな部分は、すべてその方法論に注ぎ込まれていることからも、それは間違いない。
だから「カツマー」たちのほとんどは、自己啓発のほうに夢中で、社会的な問題意識ははっきりいって乏しい。あえてこう断言するのは「私は違う」という声が聞きたいからだが、たぶんそうした声は少ないだろう。それは当然なのだ。私は経験的に確信しているが、「インセンティブ」としての「自己啓発」と「社会変革」とは、ふつうはまず両立しない。最終的には一致を見ることはありうるとしても、それはあくまで結果論である。
人を動機づける難しさは、「ひきこもり」の臨床で十分に経験済みである。少なくとも彼らにだけは、けっして「自己啓発」を促してはならない。彼らの内面にはできるだけ触れずに、環境を変え、家族を変え、少しずつ行動を変えていくことで、ふと気が付いたら内面も変わっていた、という方向づけが必要になる。
つまり私がいいたいのは、人びとを「自己啓発」に誘導しすぎると、その人たちの何割かは、「耐えるべき試練」と「変えるべき問題」の区別がつきにくくなりませんか、という懸念なのである。
「勝間教」の有効範囲は限定的
さて、「勝間和代ブーム」が宗教であるとして、それはいかなる教義をもつのだろうか。
先ほど述べたとおり、勝間氏には、彼女が提唱する方法論ほどには独自の思想や主張があるわけではない。むしろ彼女が提唱する方法論にこそ、教義の本質があると見るべきだろう。それはどういうものか。
一言でいえばこうなる。「できるかぎり情報を取り込み、できるかぎり情報を発信しなさい」。そう、「Give5乗の法則」も「フォトリーディング」も、あるいは「三種の神器(デジカメ、ICレコーダー、メモ帳)」も、すべては情報の新陳代謝を活性化するためにある。この教義は、次のようにも言い換えられる。「コミュニカティブであれ。されば報われん」と。
もしそうだとすれば、それは「勝間教」というよりはむしろ「Google教」とでも呼ばれるべきものだ。勝間氏はその熱心なエヴァンジェリスト(伝道師)なのである。
「Google教」というのは半ば冗談の思い付きなのだが、案の定すでに存在するらしい(Google教のサイト googlism.gif)。これはカナダの大学生が、Google検索のおかげで「優」を取れたことに啓示を受けて(笑)始めたとのこと。なぜGoogleが神かといえば、「何でも知っている」「遍在する」「祈りに答えてくれる」「死なない」「存在を示す証拠が豊富」となっている。要するに神学論のパロディなのだ。
しかし勝間氏が布教する「Google教」には、こうしたユーモアの要素は乏しい。その本質にあるのは、広義の「コミュニケーション偏重主義」だ。商売としてみるなら、これは本当に慧眼としかいいようがない。カツマーに多いであろう「じぶん探し」系の「若者」(~40代)は、一般にコミュニケーション志向が強いからだ。彼らが「コミュニケーションを一生懸命やればやるほど、成功できる」というメッセージに飛びつくのは当然である。ただし自己啓発のほとんどは「気の持ちようで気の持ちようは変わる」(中森明夫)という程度のものであることも、念のために言い添えておこう。
しかし実際には、「Google教」の有効な範囲は、ごく限られている。
雨宮処凜氏との対談を読むと、勝間氏はニートやフリーター対策の必要性を認めながらも、その本質についてはほとんど理解していないことがわかる(『勝間和代の日本を変えよう』朝日新聞社)。とりわけ雨宮氏が、高学歴の若者がなぜ就労できないかという理由として「コミュニケーション能力」を挙げたにもかかわらず、勝間氏はすぐ家庭教育の問題に話をそらしてしまい、この重要なトピックを掘り下げようとしなかった。
勘の鋭い勝間氏のことだから、この話題を延長していくと、いまや社会全体を覆い尽くしている「コミュニケーション偏重主義」の問題に辿り着くことに気付いたのかもしれない。さんざん情報の新陳代謝を促してきた手前、それはさすがにまずかったのだろう。
しかし、同世代とのコミュニケーション・サークルに入ることが、無限の彼方にしか感じられない若者たちが、いまや大量に存在するのだ。彼らの苦悩を、彼女はどんなふうに理解するのだろうか。
意外にも勝間氏と意気投合して語り合ったらしい西原理恵子氏が、対談後に添えた漫画でこんな科白を書いている。「勝間ほんまは男選びのグーグル化が一番必要ちゃうんかっ」(前掲書)。
じつは私が勝間氏に求めたいのは、こういう視点である。ふとわれに返って「カツマーとかうぜーよ、『信者』かよ」とか「自分をグーグル化って、なんじゃそら」とうっかり呟くような自己ツッコミとユーモア。信者は多少離れるかもしれないが、言論人としての信頼感が数段上がることは保証する。
「情報幻想」にしても「Google化」にしてもしょせんは道具、人生の一大事などではない。そういう醒めた視点があって、初めて自己啓発が社会変革に通ずる回路が開かれるのではないだろうか。自己ツッコミ機能を搭載した「カツマー2.0」へのバージョンアップを期待したい。
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