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生き方

「つらくても一人で頑張ってしまう人」に足りない幼少期の親との経験

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2022年02月03日 公開 2023年07月26日 更新

「つらくても一人で頑張ってしまう人」に足りない幼少期の親との経験

世俗の世の中に生きている以上、私たちは人と接することを避けられない。よいコミュニケーションは、よい人生につながるだろう。しかし、どうしても人と打ち解けられない人も存在する。

そうした人は、皆と一緒に何かを楽しむことのできない「偽りの自己」であると加藤諦三氏は指摘する。何かに身を任せることができず、毎日がつらい。そんな彼らに欠けている幼少期の体験とは。

※本稿は、加藤諦三著『だれとも打ち解けられない人』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。

 

「一緒に」楽しんだ経験がない

「偽りの自己」の人は「皆と一緒に楽しむ」ということができない。例えば一緒に暮らしていても、その暮らしを楽しむということができない。「偽りの自己」の人は「共に」ということができない。うつ病になるような人、つまり執着性格者は真面目だけれども、この「偽りの自己」なのである。

だから、皆が楽しそうにしていると落ち込むのである。「一緒に」楽しむことができない。一緒にお酒を飲んでいても「一緒に」飲んでいない。飲んでいる人と心がふれ合っていない。「飲ましてもらっている」か、「飲ましてやっている」になってしまう。

先に書いたように「安定した家庭出身の子どもたちの示す反応には、ごく少数見られる」というときの安定した家庭というのは、心理的に「一緒に」暮らしていた家庭なのである。

安定した家庭とは「母親と一緒に布団にシーツを敷いたあとで、子どもはシーツの上で飛び跳ねて母親とじゃれる。シーツをくしゃくしゃにしたあとでお水を飲む」という母親との戯れがある家庭である。

一方で、「長期の反復的な離別経験を持つ子どもたち」というのは、空間的に「一緒に」暮らしていないということを精神科医・ボールビーは述べているようであるが、私は空間的に「一緒に」暮らしていないということが重要なのではないと思っている。

多くの場合、空間的に「一緒に」暮らしていないと、心理的に「一緒に」暮らしていないから問題なのである。その次に「あるいは不幸な家庭出身の子どもたちの反応には目立って多い」と述べている。この「不幸な家庭」というのが、「心理的に一緒に暮らしていない家庭」という意味である。

「偽りの自己」の人は、小さい頃から心理的に「人と一緒に」暮らした体験がない。「偽りの自己」の人と、うつ病になるような人とは、同じような意味であるが、彼らは小さい頃から「一緒」の体験がない。

空間的には友達と「一緒に」遊んでいても、心理的には「一緒に」遊んでいるわけではない。家の中で親子として「一緒に」遊んでいても、心理的に「一緒に」遊んでいるわけではない。

子どもも親も、無理して「遊んでいる」のである。だから楽しくない。心がふれ合っていない。子どもは遊んでもらったことを親に感謝しなければならない。そんな関係なのである。

子どもは親に「遊んでもらう」ことが大切であるが、それはあくまでも感謝をする必要がない関係である。子どもが遊んでもらったことを親に感謝しなければならないときには、子どもは本当の意味で「遊んでもらって」いない。

彼らは「食べさせてもらった」ことはあるが、「一緒に」食べたという体験がない。「食べさせてもらった」ことを親に感謝しなければならない。「心」がないから他人と生きることが負担になる。

空間的に「一緒に」仕事をしていても、心理的には「一緒に」仕事をしていない。それは会社の仕事でも家庭の仕事でも同じことである。どこにいても彼らは「してあげた」ことと「してもらったこと」しかない。そして「してもらったこと」には感謝をしなければならない。

要するに、彼らは形式的に共同体に属していても、心理的には共同体に属したことがない。アメリカの精神科医カレン・ホルナイは、劣等感を「帰属意識の欠如」と述べているが、彼らは帰属意識が欠如しているために、心の底では深刻な劣等感に悩まされている。

彼らは生まれたときから機能集団にいた。わかりやすくいえば、彼らは家庭には生まれてこなかった。彼らは、今の日本でいえば実力主義の外資系の会社に生まれてきたようなものである。働けば給料をもらえるが、働かなければ給料はもらえない。彼らに親はいなかった。経営者がいただけである。

先に、彼らは何をしても心理的に「一緒に」ということがないので、「会社でも家庭でも同じことである」と書いた。もっとはっきりといえば、会社も家庭も同じなのだから、家庭はない。彼らには心理的に共同体はない。つまり彼らには「心の世界」がない。

彼らは小さい頃から人と心が「ふれ合う喜び」を体験したことがない。そうなれば「他人と生きること」は負担であっても「楽しいこと」ではない。母親との戯れが子どものコミュニケーション能力を養っていく。子どもは母親と自分との二人だけの世界がほしい。

「偽りの自己」の人は、小さい頃に「母親と自分との二人だけの世界」を持った経験がなかったのである。人は小さい頃に、この「母親との二人の世界」を持つことを通して、心の中に自分の世界を築き上げることができる。

そうして自立できるから大人になって、人と「親しい関係」を築くことができる。異性・同性を問わず、持続的な人間関係を築くことができる。最近、子育ての負担がしきりに言われる。そして少子化対策は、少子化の原因をそこに求めた負担軽減を目的としたものでしかない。

少子化の最も根本的な原因は、今の日本に共同体がなくなってきたことであり、個人が「偽りの自己」になってしまったということである。子育ては「喜び」ではなく「負担」になってしまった。市場原理主義は、人から心を奪った。

「偽りの自己」は他者と「一緒に」生きられないことであり、心理的に協力して何かをすることができないことであるが、もう一つリラックスできないという特徴がある。つまり、どうしても人と打ち解けられない。さらに本当は依存心が強い。

強い依存心の反動形成が「偽りの自己」である。「偽りの自己」とは何かを独力でやろうとすることである。彼らは何かに身を任せられない。母なるものに、自らの身を任せた体験がない。だから、何かに向かって安心して自分の身を投げ出せない。

小さい頃から自分の力で自分を守らなければならなかった。彼らは他人に守ってもらった経験がない。心理的に小さい頃からずーっと「一人で」生きてきた。だれかと「一緒に」生きてこなかった。いつも不安な緊張をして生きてきた。心の底から安心感を体験したことがない。

だから不眠症などになりやすい。いつも寝つきが悪い。寝るということは、何かに身を任せるということである。私は、ウィニコットが言う「偽りの自己」の「偽り」を「神経症的」と考えて、それを「神経症的自己」と呼びたい。

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心の奥の憎しみがコミュニケーションの邪魔をする

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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