『原発「危険神話」の崩壊 』 私がこれを書いたわけ/池田信夫
2012年02月28日 公開 2022年11月02日 更新
《 『原発「危険神話」の崩壊』 より》
東日本大震災と同時に起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故は、原発についての従来の神話を打ち砕いた。1986年にソビエト連邦(当時)で起こったチェルノブイリ原発事故は社会主義国の特殊な出来事であり、先進国では原子炉が全壊する深刻な事故は起こりえない、と多くの関係者が考えていた。それが1000年に1度の大地震と大津波という極端な条件のもととはいえ、現実に起こったことは衝撃だった。この意味で、よくいわれるように「安全神話」に呪縛されて津波対策に十分なコストをかけなかった東電の過失はきびしく追及されるべきだ。
他方、福島第一原発事故が、チェルノブイリ事故とは違うことにも注意が必要である。従来の安全論争では、炉心溶融が起こるかどうかに大部分の労力がさかれ、それが起こったときは原子炉が全壊して大量の放射性物質が周辺数十キロメートルに飛散して数万人の死者が出ることは必然だと思われていた。
しかし今回の事故では ―― あとからわかったことだが ―― 炉心は完全に溶融していたが、圧力容器は(一部破損したものの)破壊されず、格納容器もほぼ無事だった。原子炉建屋が水素爆発で破壊され、放射性物質が大気中に放出されたが、その量はチェルノブイリの1割程度だった。原発の地下室で津波によって作業員2人が死亡したが、致死量の放射線を浴びた人は作業員にもいないので、今後とも放射能による死者が出ることは考えられない。つまり今回の事故では、次の2つの神話が崩壊したのである。
・安全神話:最悪の事態でも炉心溶融は起こらない
・危険神話:炉心溶融が起こると数万人が死ぬ
このうち後者はあまり気づかれないが、不幸な出来事の多かった中で唯一のグッドニュースである。放射能の健康被害は、従来の想定よりもはるかに小さかったのだ。だから30キロ圏内を避難させた政府の計画的避難区域は過大であり、農産物などの出荷規制も不要だった。このような過剰規制によって11万人の人々が10カ月以上にわたって避難生活を余儀なくされ、農業に多大な被害が出て、その賠償で東電の経営が破綻することが懸念されている。
もちろんこれは結果論であり、ほとんど情報のなかった事故直後に行政が「過剰防衛」したのはやむをえないが、その後もずっと避難勧告を解除しなかったことは被災者に大きな負担となった。この原因は、マスメディアだけでなくネットメディアも放射線の危険を誇大に報じ、「リスクゼロ」を求める人々が騒いだためだ。
このように大事件のあと危険神話が一人歩きするのは、今回だけではない。2001年の同時多発テロでは航空機の利用が激減し、全世界で「セキュリティ産業」が大繁盛した。今回の放射能に対する過剰反応もパニックの後遺症で、人々が冷静な判断力を失っているとき狼狽して過剰な対策を取ると、イラク戦争のように巨額の税金が浪費される結果になる。
こうした状況を改善するためには、人々の心理的な安心を際限なく求めるのではなく、何が客観的に安全かという科学的な基準を再検討する必要がある。ところがメディアは依然として不安をあおる報道を続け、科学的な検討そのものを否定してひたすらに「国の決めた安全基準を守れ」と主張する人々がいる。このようなヒステリーは事故の直後の混乱した状況ではやむをえないが、そろそろ落ち着いて考え直すときだろう。
私は原子力工学の専門家でも放射線医学の専門家でもないが、NHKに勤務していた1980年代に原発訴訟を取材し、それからも関心をもってきた。エネルギー問題の特徴は、非常に複雑で専門分化していることだ。しかも物理学や医学と経済問題や政治問題がからみあっているので、ある分野のテクニカルな問題が別の分野に影響する。原子力工学の専門家は放射線医学については古い知識しかなく、放射線医学の専門家はエネルギー問題については何もいえない。それは専門家の節度としては正しいのだが、結果的には専門知識のないデマゴーグの跳梁を許してしまう。
だからどの分野の専門家でもない私が全体を俯瞰(ふかん)して浅く広く紹介し、基本的な事実を正しく理解してもらうことも意味があろう。その際、私の専門は経済学なので効率性を基準にして考え、具体的なデータと数字で語るように心がけたつもりである。
最後まで読んでいただけばわかるが、私は原発が安全だとも推進すべきだとも主張していない。原発は危険だが、そのリスクを他の発癌物質や環境汚染と同じ基準で比較し、費用対効果を最適化すべきだと言っているだけである。もちろん政府の事故調査・検証委員会は中間報告を出しただけで、炉内の状態など詳細な事実関係はまだ確認できないので、これは2012年1月現在の暫定的な議論である。
本書は私の経営する株式会社アゴラ研究所で2012年1月からスタートしたGEPR(グローバルエネルギー・ポリシーリサーチ)の活動の一環として、この半年にブログやコラムで書いた文章を大幅に書き直したものである。本書に引用した論文やデータのほとんどは、GEPRのウェブサイト(http://gepr.org)に掲載されているので、くわしいことを知りたい方は参照していただきたい。
池田信夫
(いけだ・のぶお)
株式会社アゴラ研究所所長
1978年東京大学経済学部を卒業後、NHKに入社。報道番組の制作に携わり、1993年に退社。1997年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程を中退。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現職。上武大学経営情報学部教授。学術博士(慶應義塾大学)。日本を代表するブロガーとして積極的な言論活動を展開している。
著書に『新・電波利権』(アゴラブックス)『使える経済書100冊』(NHK出版)『希望を捨てる勇気』(ダイヤモンド社)『ハイエク 知識社会の自由主義』(PHP新書)『古典で読み解く現代経済』(PHPビジネス新書)『イノベーションとは何か』(東洋経済新報社)など多数。
◇書籍紹介◇
原発「危険神話」の崩壊
福島第一原子力発電所の事故は、「安全神話」を打ち砕いただけでなく、炉心溶融が起こると数万人が死ぬといった「危険神話」をも崩壊させた。震災後、マスメディアもネットメディアも放射線の危険を誇大に報じ、多くの人が「リスクゼロ」を求めたが、科学的知見によれば、「100ミリシーベルト以下の健康被害は0.35%以下」であることは確実にいえるという。
どの分野の専門家でもない著者が、客観的な立場から全体を俯瞰して、震災後の放射能、エネルギー問題を論じる。メディアや知識人の偏向を批判した、闘う経済学者の勇気ある言論である。