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吉田松陰とその妹―維新の原動力とは何か

2015年02月06日 公開

童門冬二(作家)

『歴史街道』2015年2月号より》

 

「民を救い、日本を守るにはどうすればよいのか」
吉田松陰が兵学者として、松下村塾に集う若者たちに問いかけ、ともに考え続けた命題である。
玉木文之進や佐久間象山の薫陶を受けた松陰は、時に脱藩して海防視察にあたり、時に国禁を犯して黒船密航を試み、敵情を知ろうとした。
そこに私利私欲は一切なく、あるのは「日本を守りたい」という一念のみである。
そんな「穢れを知らない子供」のような松陰を、家族は全面的に信頼し、支援することを惜しまなかった。
やがて松下村塾が発した「熱」が、日本を変えていく。

 

兵学者の純粋な志と稀有な家族から維新への道は始まった

 

已に課した使命

 今からおよそ150年前、わが国に大変革が起こりました。「明治維新」です。17世紀初頭からの徳川幕藩体制はここに終わりを告げ、明治新政府が誕生しました。かくして日本は、「近代国家」として生まれ変わります。

 維新の立役者といえば、長州の桂小五郎(木戸孝允)、薩摩の西郷隆盛、大久保利通の「維新三傑」、さらには「薩長同盟」で彼らを結びつけた坂本龍馬などの名が挙がるでしよう。

 しかし彼ら以外に、維新を語る上で絶対に欠かせない人物がいます。長州・萩で生まれ育ち、兵学者として日本の進むべき道を模索し続け、やがて私塾・松下村塾で多くの俊英を輩出した男――吉田松陰です。

 松下村塾の塾生には高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一ら「松門四天王」のほかにも、明治政府で要職を歴任した伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)、山田顕義、品川弥二郎、野村靖ら錚々たる顔ぶれが並びます。

 幕末史を俯瞰した時、私は松陰が果たした役割とは、「維新の原動力」であったと考えています。松陰がいればこそ、松下村塾の塾生から長州藩へ、さらには日本全国へと変革の波が広がりました。

 もう1つ、忘れてはならないのが、末妹・文(後・美和〈子〉)ら松陰の家族です。松陰を支えた「稀有な家族」の存在なくして、彼の活躍はなかったといえるからです――。

 松陰(通称・寅次郎)が杉家の次男として生を享けたのは、文政13年(1830)8月のことでした。松陰といえば、正座姿を描いた肖像画や、塾を主宰した学者ということで、年嵩の落ち着いたイメージを持つ方も多いかもしれません。しかし実は、天保6年(1835)生まれの坂本龍馬とはわずか5歳違いであり、西郷隆盛の3歳下。幕末の始まりとされる嘉永6年(1853)の「黒船来航」時、24歳でした。

 松陰はしばしば、観念的な尊王攘夷主義者であるかのように語られます。遺書『留魂録』の一首「討たれたる吾れをあはれと見ん人は君(天皇)を崇めて夷〈えびす〉(西洋列強)拂へよ」などが、そうしたイメージを形成しているのでしょう。

 しかし、それは偏った見方に過ぎません。彼の本領はあくまで兵学者でした。

 兵学の真髄は、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という『孫子』の一節に代表されるように、眼前の問題に対して、様々な情報をもとに現実的な対処法を探ることにあります。松陰の時代、最大の「喫緊の問題」は、迫りくる列強の脅威でした。ここに松陰は「兵学者として日本を守る」という使命を已に課し、走り始めるのです。

 

松陰を育んだ2人の男

 松陰が使命に目覚めたのには、2人の人物の影響がありました。叔父の玉木文之進と、生涯の師・佐久間象山です。

 松陰は5歳の時、叔父で山鹿流兵学の師範・吉田大助の仮養子となりますが、翌年に大助は死去。以後、同じく叔父で山鹿流を修め、長州藩の藩校・明倫館で教授を務めた玉木文之進に兵学の手ほどきを受けます。

 文之進は、後に親類の乃木希典にも教育を施した人ですが、その教え方は極めて厳しく、松陰が授業中に額に止まった虫を追い払うと、「学問に励み、兵学師範の吉田家の跡を立派に継ぐことは、『公』のためである。しかるに、虫一匹に気を取られて学問を疎かにするとは何事か」と叱りつけたといいます。

 実は「武士道精神」を非常に重んじるのも、山鹿流兵学の特色の1つでした。松陰は文之進から、「武士」としての在り方を叩き込まれました。その後の松陰が一切の見返りを求めず、純粋に日本のために働くことを当然と考えたのは、文之進の薫陶が大きかったことでしょう。

 幼少より兵学に打ち込んだ松陰でしたが、次第にその視野は藩の枠を飛び越え、日本全体に向けられていきます。天保11年(1840)、アヘン戦争が勃発し、隣国・清がイギリスに蹂躙されます。清の惨状は日本にも伝わり、知識人の多くはペリー来航を待たずに、強い危機感を抱いていました。松陰も亡き義父・大助の高弟・山田宇右衛門や、長沼流兵学者・山田亦介から、『坤與図識(世界地理書)』を前に海外情勢を学んでいます。

 やがて松陰は、全国周遊の旅に出立。南は熊本、北は青森まで足を延ばして、自分の眼で日本の海防の実情を見て回りました。そんな松陰が江戸で邂逅したのが、蘭学者の佐久間象山です。嘉永4年(1861)、松陰22歳、象山41歳のことでした。

 象山は「開国」を主張したことで知られますが、その根底にはあくまで「攘夷」がありました。攘夷というと、「所構わず異人を打ち払え」という短絡的な考え方を連想しがちですが、象山は違いました。開国はあくまで敵を知り、優れた部分を取り入れるためであり、それによって日本の国力を増強し、列強と伍する国を創る。これこそが真の攘夷である――。まさしく「和魂洋才」を基本とした考え方であり、松陰は象山の攘夷論に膝を叩いて、師と仰ぐのです。

 文之進から兵学者としての土台と武士としての在り方を学び、象山のもとで現実的な攘夷の方法論を固めた松陰は、その手で日本を守るべく、突き進んでゆくのです。

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iyashi

著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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