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菅野直と紫電改―指揮官先頭を貫いた闘魂

2015年03月19日 公開

高橋文彦(作家)

「ワレ、菅野一番」連日の死闘

「あの不死身の杉田が戦死するとは…」。撃墜王の悲報に、さしもの菅野も肩を落とした。悪化する戦況の中で343空は特攻機の護衛、B29の邀撃と困難な任務をいくつも担わされ、激闘の中で有能な人材が次々と失われていく。しかし、菅野が烈々たる闘志を失うことはなく、最期の瞬間まで、隊長として敵に挑み続ける。
 

杉田庄一との別れ

華々しい初陣を飾った第343航空隊だが、物量で勝る米軍の攻勢は凄まじく、多勢に無勢の剣部隊は次第に苦戦を強いられる。

昭和20年(1945)4月15日、戦闘301飛行隊の8機が鹿屋基地の上空防衛のために待機していた。

杉田庄一上飛曹にとって、鹿屋基地は居心地が悪かった。剣部隊は第5航空艦隊に属しているが、その司令部は鹿屋基地にあり、司令長官が宇垣纏中将だったからである。杉田が山本五十六司令長官機の護衛についたとき、2番機に乗って撃墜されながら助かったのが、当時連合艦隊参謀長たった宇垣である。宇垣は4月6日から、沖縄防衛の特攻作戦「菊水作戦」を指揮し、源田実司令にも「そろそろ特攻隊を出してはどうか」と打診していた。

源田から話を聞いた菅野は、鹿屋から他の基地へ移るように意見具申した。源田からの要請で343空は第一国分基地へ移動することになり、それが2日後に追っていた。

午後3時ごろ、電探(レーダー)基地と監視哨から指揮所へ緊急通報が入った。

「敵編隊、佐田岬の南東10カイリ(約18.5キロメートル)を北進中!」

源田は「即時発進」を命じた。杉田は愛機に飛び乗った。2番機の笠井智一(上飛曹)、3番機の宮沢豊美(二飛曹)、4番機の田村恒春(飛長)も搭乗した。源田は双眼鏡で上空を見あげた。すでにグラマンF6FとF4Uコルセアの編隊が攻撃態勢に入り、急降下してきた。どんな優秀な搭乗員でも離陸時を狙われたらひとたまりもない。

 「発進中止、退避せよ!」

 源田は自ら機上の無線電話に向かって声を張りあげた。ほとんどの隊員は発進を中止したが、すでに杉田と宮沢だけは滑走を始めていた。杉田の機体は離陸直後に敵の猛射を浴びて火を噴き、飛行場の端に激突した。宮沢も燃料タンクを撃ち抜かれて火だるまとなったまま飛び続け、国立療養所の庭に落ちた。

「あの不死身の杉田が戦死するとは…」

悲報を告げられた菅野直大尉は激しいショつツクを受けた。その姿は傍から見ていても痛々しいものがあった。

 翌16日、杉田の遺体が荼毘に付された。ところが火葬の前に再び空襲があり、敵戦闘機が放ったロケット弾が近くで炸裂し、杉田の遺体を吹き飛ばしてしまった。

 源田の具申により、杉田の戦死は全軍布告され、単独撃墜70機、協同撃墜40機の功績により2階級特進で少尉に進級した。

続く悲劇の連鎖 >

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