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井伊直弼の知られざる苦悩〜なぜ勅許を得ぬまま通商条約を結んだのか

2017年10月14日 公開
2022年12月07日 更新

『歴史街道』編集部

井伊直弼

彦根藩13代藩主・井伊直弼が幕府大老となったのは、安政5年(1858)4月23日。勅許を得ずに日米修好通商条約に調印するのが、それから2ヵ月も経たない6月19日のことですので、朝廷を意に介さぬ直弼が、独断で調印に踏み切ったと考えられてきました。

ところが平成6年(1994)に彦根市に寄贈された彦根藩井伊家文書の中の木俣家伝来「公用方秘録」に、従来の直弼とは異なる姿が記録されていました。

調印2日前の6月17日。アメリカ公使ハリスは、会見した下田奉行・井上清直、目付の岩瀬忠震〈ただなり〉に、「直ちにアメリカと条約を結べば、もしイギリス・フランスが強引な要求をしてきても、アメリカが間に入って調停する」と強調しました。

その急報を受けて、江戸城では井伊大老を中心とする幕閣による評議が開かれます。大方の者が調印に賛同する中で、慎重な姿勢をとったのは実は井伊直弼でした。

直弼はさらに老中たちとのみ、再度、評議を重ねた末、ハリスと折衝中の井上、岩瀬の両名を呼び、「勅許を得られるまで、できるだけ調印を延期するよう、努めて交渉せよ」と命じたのです。直弼は、決して勅許をないがしろにしていたわけではありませんでした。

直弼の言葉に井上が、「もし交渉が行き詰まった場合には、調印しても構いませぬか」と尋ねると、直弼は「その際はやむを得ぬが、しかしそうならぬよう、調印をできるだけ引き延ばすよう努めよ」と念押しをしたのです。

豪徳寺

直弼は彦根藩主に就任する前は、生涯陽の目を見ることはないであろう、部屋住みの身分でした。悶々と過ごす中で直弼は、茶道、和歌、居合の道をそれぞれ極めていきます。その和歌の師が、同い年の国学者・長野主膳義言〈よしとき〉でした。

長野は和歌だけでなく、日本を皇国とする独自の国体論を直弼に伝えます。その根本は徳川幕府の治世を肯定しつつも、徳川政権は朝廷との合意のもと、幕府に委任されたものであるとする、尊王思想に基づいた大政委任論でした。

これは当時の教養人の中では一般常識というべきもので、直弼も自然にこれを受け入れ、幕府大老となってからも、尊王の姿勢と大政委任の認識は終始一貫していました。当然、外国との通商条約締結を、勅許を得ずに断行してよいなどとは考えていなかったのです。

しかし折衝役の井上・岩瀬の両人は、「(交渉が行き詰まった場合には)やむを得ぬが」という直弼の言葉で言質をとったものと解釈し、2日後には調印に踏み切りました。

一方、江戸城の評議から彦根藩邸に戻った直弼は、側役兼公用人の宇津木景福(うつぎかげよし)に、「帝のご意向に沿って、諸大名を招集し、考えを聞いた上で決定すべきではなかったでしょうか」とたしなめられ、我に返ります。

そして「そこに思い至らなかったのは、無念の極み。進退伺いするより他なし」と、自分の決定が十分に衆議を尽くしていなかったことに責任を感じ、大老辞任を口にしました。

しかし、今、大老を辞任しては、条約問題の責任が将軍にまで及びかねず、ここに至ってはもし勅許を得ずに調印となっても、事態の打開に努めるべきと側役たちから諫言され、直弼は辞任を撤回し、弱気の虫を振るい払って、政敵との対決に臨むことになるのです。

「宗観院柳暁覚翁大居士」。直弼の戒名です。これは安政2年(1855)、直弼が江戸出府にあたり、自ら選んで、菩提寺に奉納したものでした。幕政に関わる以上、捨て身で臨む覚悟を直弼は3年も前に固めていたのです。

そこには戦国以来の「井伊の赤備え」の誇りと、多くの彦根藩主が大老として幕政を支えきたことへの矜持があったのでしょう。その強い責任感が安政の大獄を断行し、桜田門外の変を招くことになったといえそうです。

歴史も、人の運命も、紙一重のところで大きく変わるものであると痛感させられます。豪徳寺の直弼の墓石には、読み取りにくくなってはいましたが、彼が自ら選んだ戒名が確かに刻まれていました(辰)

写真は横浜掃部山公園の井伊直弼像、豪徳寺の三重塔、井伊直弼墓。井伊直弼墓のすぐ右に見えるのが、桜田門外で落命した8人の彦根藩士の「桜田殉難八士之碑」

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