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世田谷城跡と常盤姫の悲話

2015年05月09日 公開
2023年10月04日 更新

『歴史街道』編集部

先日、井伊直弼の墓所のある世田谷の豪徳寺を紹介しましたが、本日は隣接する世田谷城跡(世田谷城址公園)と、城に伝わる常盤姫の悲話をご紹介してみます。

世田谷城は足利氏の一族・吉良〈きら〉氏が居城とした城で、吉良成高〈しげたか〉が応永33年(1426)以前に築いたとされます。

吉良成高の吉良氏は、鎌倉時代前期の御家人・足利義氏の二人の息子に始まりました。

兄弟は三河国幡豆〈はず〉郡吉良荘を本貫としたため、吉良氏を称し、兄は三河吉良氏、弟は奥州(武蔵)吉良氏の祖となります。世田谷の吉良氏は後者の流れです。

足利氏の一門であることから、足利家が室町幕府を興すと吉良氏は「御一家」と呼ばれて別格の扱いを受けました。このため俗に「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と称されたといいます。

ちなみに元禄時代の「忠臣蔵」で有名な吉良上野介は、三河吉良氏の流れです。

世田谷城は目黒川の支流・烏山川が大きく南に蛇行するところの北側、三方を川に囲まれ、南東側に突き出した舌状台地上に築かれました。現在、烏山川は暗渠化され、緑道となっています。

北方を甲州古道中出道(滝坂道)が走り、また東方には南北に鎌倉道が走るその交差点に世田谷城は位置し、交通の要衝を押さえていました。城域は現在の世田谷城址公園から豪徳寺山門南側までという説と、豪徳寺の寺域を含めた広い範囲とする説があります。

もともと豪徳寺は、一族の吉良政忠が叔母の菩提を弔うため城内に創建した弘徳院が前身とされますので、後者の説の可能性は高いのかもしれません。豪徳寺の寺域は吉良氏の館跡、現在の城跡は非常時の「詰城〈つめじろ〉」という見方も存在します。

現在、城跡には複数の曲輪〈くるわ〉が確認でき、それらは土塁で囲まれています。土塁の外側には堀が取り巻いていたと考えられます。しかし城域には私有地も含まれ、不明部分も多く、全体の構造はいまだ明確ではありません。

さて、世田谷城を築いた吉良成高の息子が吉良頼康でした。はじめ頼貞と称しますが、政略結婚で小田原の北条氏綱の娘をめとり、天文17年(1548)に北条氏康の一字を拝領して、頼康に改めます。北条氏の傘下に入ったことの証でした。

そんな頼康には複数の側室がいましたが、とりわけ寵愛したのが、家臣で奥沢城主・大平出羽守の娘、常盤姫です。やがて姫は懐妊しますが、それを妬んだ他の側室たちが、頼康にあらぬことを吹き込みました。

いわく、常盤の腹の子は殿の御子ではなく、家臣との不義密通の子であると。頼康は疑念にさいなまれ、常盤殺害を命じたともいいます。常盤は深く悲しみ、飼っていた白鷺の足に辞世の句を結び付けて、実家の奥沢城に向けて放すと、その後、自害したとも、討たれたとも伝わります。

ところが、たまたま奥沢城近くで狩りをしていた頼康の矢が、城に向かっていた白鷺を射落としました。その足に結び付けられた常盤姫の辞世の歌を読んだ頼康は、姫の無実を悟り、急ぎ城に戻りますが、姫は胎内の子とともに事切れていたのです。子供は男子でした。

頼康は讒言を信じた自分を悔いて、側室を成敗するとともに、常盤姫と息子の鎮魂のために、領内の駒留八幡宮に若宮と弁財天を祀りました。なお手紙を奥沢城に運べなかった無念からか、白鷺が死んだ地には、鷺の形に似た白い花が咲くようになります。鷺草でした。

以上の話はあくまでも伝承で、大同小異の複数の話が伝わります。おそらくベースは江戸時代に成立した「名残常盤記」という物語で、作り話として片づけるのは簡単なのですが、なぜこうした伝承が生まれたのか、気になるところです。

史実では足利一族の名門吉良家は北条氏に取り込まれ、頼康は実子も生まれながら、北条氏の意向で他家から養子(堀越貞朝)をとって家督を継がさざるを得ず、さらに養子が北条氏康の娘をめとることで、吉良氏は完全に北条氏の家臣となっていきます。

想像するに、その吉良氏の悲運と、あるいは常盤姫の伝承に近いような出来事が家中に起こり、それらが悲話として縒り合されていったのかもしれません。なお世田谷区上馬には、常盤姫の墓ともいわれる常盤塚があります(辰)

写真は世田谷城跡

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