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江戸っ子の心意気! 神田祭

2015年05月10日 公開
2023年10月04日 更新

『歴史街道』編集部

東京の神田周辺では、1週間ほど前から家や商店の軒先に提灯が下がり、祭の近いことを感じさせていました。言わずと知れた神田明神の神田祭です。

山王祭、深川祭と並ぶ江戸三大祭の一つ、また京都の祇園祭、大阪の天神祭と並ぶ日本三大祭の一つです。

神田祭は現在、2年に1度、大祭が行なわれており(西暦の奇数年)、今年は大祭の開催年。しかも今年は現在地に神社が遷座してから400年ということで、「ご遷座400年奉祝大祭」と謳われています。今回は神田祭について、ご紹介してみます。

神田明神(神田神社)の歴史は古く、奈良時代の天平2年(730)に武蔵国豊島郡柴崎村に入った出雲系の氏族・真神田臣〈まかんだのおみ〉が、大己貴命〈おおなむちのみこと〉を祀ったのが始まりでした。その場所は、現在の東京都千代田区大手町にあたります。

その後、天慶3年(940)に敗死した平将門の首塚が神社の近くに祀られ、多くの武士から尊崇を集めました。

14世紀初頭の嘉元年間(1303~6)に疫病が流行ると、将門の祟りではないかと怖れられ、供養が行なわれて、延慶2年(1309)、将門を相殿神〈あいどのしん〉として神田明神に祀ることになります。

徳川家康が江戸に入府して、江戸城拡張工事が始まると、神田明神は家康が征夷大将軍となる慶長8年(1603)に神田台へ、さらに家康が没する元和2年(1616)に現在地に遷座しました。

その場所は江戸城の鬼門にあたり、神田明神は徳川幕府より江戸城の守りを託されたのです(南光坊天海のプランであるといわれます)。そして「江戸総鎮守」として、将軍から江戸市民までを守護し、篤く信仰されました。

神田祭がいつ頃から行なわれているのか、はっきりとはしませんが、少なくとも元和年間(1615~24)には、船渡御のかたちで行なわれていたといいます。また延宝年間(1673~81)頃までは、毎年行なわれていました。

その後、赤坂・日枝神社の山王祭と隔年で交互に行なうようになり、そのかたちは現在まで踏襲されています。

そして神田祭と山王祭の山車〈だし〉は、両社が徳川将軍家を守護する神社であるという理由で、特別に江戸城内に入り、将軍に拝謁することを許されました。このことから神田祭と山王祭は、「天下祭」と呼ばれるのです。

当時の神田祭では、華麗な山車が36基も連なりました。これらの山車が大幅に減少したのは、明治に入って電線が普及したためといわれます。

また明治7年(1874)、明治天皇の行幸にあたり、神社に逆臣・平将門が祀られているのはよろしくないとされ、将門が祭神より外され、代わりに少彦名命〈すくなひこなのみこと〉が勧請〈かんじょう〉されました。

しかし昭和59年(1984)、将門は本社祭神に復帰し、現在は三柱(大己貴命、少彦名命、平将門命)が祀られています。

神田明神は今も、神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々の総氏神です。そのため神田祭の規模は大きく、人出は300万人以上にのぼるとも。

今年の日程は、5月7日・鳳輦・神輿遷座祭(本殿から三柱の御祭神の御神霊〈みたま〉が鳳輦・神輿にお遷りになります)、5月8日・氏子町会神輿神霊入れ、5月9日・神幸祭、5月10日・神輿宮入、5月14日・献茶式(表千家家元奉仕)、明神能・幽玄の花、5月15日・例大祭。

神田祭で最も重要な儀式は最終日の例大祭ですが、最も盛り上がるのは、神輿宮入。大小200基もの神輿が町々を練り、決められた時間になると神社に向かい参拝する、宮入を行ないます。

氏子自慢の神輿が次々と神社に繰り出す、勇壮な宮入は朝から晩まで続き、その数、約90基。神田明神周辺の混雑は大変なものですが、神輿が来ると観客からも掛け声がかかり、担ぎ手も観客も一体になって祭を楽しみます。

半纏をまとい、鉢巻をきりりとしめて、「セイヤ! セイヤ!」の掛け声とともに神輿を力強く揺さぶる姿は、圧倒的な迫力。まさに東京に「江戸っ子の心意気、健在なり」という姿です。観ていた私も元気をもらいました(辰)

写真は宮入に向かう神輿と、宮入を終えた山車

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