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土蔵相模と御殿山焼討ち

2015年05月17日 公開
2023年10月04日 更新

『歴史街道』編集部

先日、旧東海道品川宿に出かけてきました。品川宿はご存じの通り東海道第一宿で、現在の京急本線の北品川駅から青物横丁駅付近にかけて広がっていたといわれます。

現在は地元の人々の尽力によって道標などがきちんと整備され、歩いていて懐かしくもあり、気持ちの良い通りが続いています。今回はその中でも高杉晋作ら幕末の志士に馴染みの深い、土蔵相模跡などを中心にご紹介してみます。

品川宿は、目黒川を挟んだ南・北品川宿と、享保期にできた歩行〈かち〉新宿(北品川)とで構成されました。宿内の家々は1,600軒、住人は7,000人を数えたといわれます。また、俗に北の吉原に対して品川は南といわれ、遊興の場所としても有名でした。

品川という地名の由来については諸説あるようですが、目黒川が昔、品川と呼ばれていて、河口付近の地域を品川と呼ぶようになったといわれます。

また大同年間(806~810)に開創された古刹・品川寺〈ほんせんじ〉の由緒では、空海が本尊「水月観音」を地元の領主・品河氏に授けたとされ、すでにこの当時から品河という姓と、おそらくその姓の元となった地名があったことが窺えます。

ちなみに品川寺という寺名は、江戸時代の5代将軍綱吉の時に、寺領を拝領して改めたものであるとか。それまでは「観音堂」と称されていました。

さて、江戸時代の品川宿は「旅籠百軒」と謳われ、文字通り旅籠が軒を連ねて大いに賑わいました。その中でも幕末の志士たちが使ったことで知られるのが相模屋です。外壁が土蔵のような海鼠〈なまこ〉壁であったことから、「土蔵相模」と呼ばれていました。

大老井伊直弼を桜田門外で討った水戸浪士たち。彼らが決行前日に今生訣別の酒宴を張ったのが、この土蔵相模でした。土蔵相模は旅籠というより遊郭の妓楼というべき場所で、水戸浪士たちは土蔵相模の4軒隣の引手茶屋稲葉屋から土蔵相模にあがっています。

そして酒を酌み交わした後、稲葉屋に戻ってそこに宿泊し、翌朝、雪の中を桜田門へと向かいました。

桜田門外の変が起きた安政6年(1860)3月3日からおよそ2年半後の、文久2年(1862)12月12日夜。土蔵相模に密かに集結したのが高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、赤根武人、有吉熊次郎ら松下村塾出身者や、志道聞多〈しじぶんた〉、松島剛蔵ら長州の12人でした。

彼らの目的は攘夷の先鋒として、品川御殿山に幕府が建設中の外国公使館を焼討ちすることです。

御殿山は品川の西北に位置する小高い丘で、二代将軍秀忠の時代まで、参勤交代の大名を送迎する御殿があったことから、その名がつきました。眼下に海を見下ろす見晴らしのよい場所で、桜の名所としても知られ、江戸市民の行楽地として親しまれていました。

ただペリー来航以来、幕府は品川沖に台場を築くべく、埋め立て用の土を御殿山から取ったため、頂上付近は随分削られたといわれます。

そして、高輪の東禅寺に置かれていたイギリス公使館が2度も攘夷志士の襲撃を受けたことから、幕府は御殿山に新たな外国公使館を築き、万全の警戒態勢を布こうと考えました。そこで晋作らは建設中の公使館を灰にすることで、攘夷実行の狼煙にしようとしたのです。

京浜急行の北品川駅から少し南に行くと、すぐに下町の商店街が現われます。それがかつての品川宿・歩行新宿で、まさにそこに土蔵相模の碑が建っています(現在はマンションとコンビニ)。一方、御殿山は反対側の北品川駅の北側、八ツ山橋西側の現在、高層マンションの建つあたり。

意外にも土蔵相模から歩いてもさほどの距離ではありません。昔であれば土蔵相模の軒下から、御殿山に普請中の公使館は十分見えたのかもしれないとも想像できます。

12日夜、公使館を焼討ちした晋作、玄瑞らは、火事騒ぎをよそに、芝浦の妓楼や高輪の引手茶屋に散って、それぞれ祝杯を上げました。ところが一人、脱出するのが遅れた志道聞多はあわてて柵を乗り越えて空堀に落ち、さらに駆けつけた火消し隊を避けるため畑を突っ切り、泥まみれになります。

やっとのことで高輪に出て、なじみの茶屋・武蔵屋で着物の着替えを借りると、土蔵相模にとって返しました。実は焼討ちのために用意していた焼玉をうっかりなじみの女の部屋の掛け軸の裏に隠したまま、忘れていたことに気づいたからです。

土蔵相模の女の部屋に行って探しますが見当たらず、「焼玉がなかったか」とは訊けないので、「たどん(炭の粉末を団子状にした燃料)がなかったか」と尋ねると、女は「はい。それを今、火鉢にくべるところです」と言うので、聞多は青くなって止めようとします。

すると女は可笑しそうに笑って、「これは本物のたどんです。あの焼玉はとうに裏の海に捨てました」と答えたのだとか。

翌朝、聞多が戻っていないことに皆が気づき、あわてて晋作らが探すと、土蔵相模の女の部屋で眠りこけている聞多が見つかりました。井上馨の若き日の姿です(辰)

写真は土蔵相模跡の碑と説明板

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