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小栗上野介、罪なくして斬らる

2015年09月28日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

勝てば官軍、負ければ賊軍

免職となった上野介は、彰義隊や会津藩への協力を誘われますが、「新しい政府に内紛が起こり、国内が混乱し外国に乗じられるようなら自分の役目もあろう。その心配もなく過ごせるならば、前政府の頑固な一人として静かに世を過ごすつもり」と言って断りました。

小栗にすればおそらく、「国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」は、実践したということなのでしょう。やるべきことをやり、その結果、主君に疎まれたのならば、もはやこれまで。後は領地の上野国権田村に退いて、静観するのみ。

生まれ育った江戸を離れ、小栗とその家族・家臣が権田村(現在の倉渕村)の東善寺に入ったのは3月1日のことでした。小栗は村の若者たちを教育して、新時代に役立てたいと考えていました。しかし、到着早々、不穏な状況となります。

小栗が所有する莫大な財産を奪おうと、博徒らがたきつけて近在の村の者を集め、その数が1000人近くに達しました。もちろん小栗にめぼしい財産などなく、おそらく小栗の権田村退去を軍事作戦の一環と疑った新政府軍の何者かが、背後にいた可能性が高いでしょう。

それだけ、新政府軍にとって小栗は、怖ろしい存在でした。しかし、小栗らは家臣全員で僅か20人。そこへ暴徒と化した1000人が、襲いかかってきたのです。

小栗は村の若者たちの応援を得たうえで、フランス式調練を受けさせていた家臣らに鉄砲で先制攻撃をさせます。正確な射撃で暴徒らが次々と撃たれると、彼らはクモの子を散らすように逃げ去りました。窮地を免れた小栗らでしたが、これが新政府軍の口実となります。

その後、小栗らは自分たちが暮らす屋敷を建て始め、年老いた母や身重の妻らも、少しずつ山村の生活に慣れていきました。しかし屋敷の建て前も間近という閏4月1日、突如、高崎、安中、吉井三藩の使者が小栗を訪れ、新政府軍の回文を見せます。

そこには東山道総督府の名で、三藩の藩主に、小栗が陣屋や砲台を築いて容易ならぬ企てを抱いているので、その追捕、手に余る場合は討ち取るべしという命令が記されていました。小栗は使者に身の潔白を訴え、養子の又一に高崎藩主に説明させることにします。

しかし、又一は高崎で捕らわれの身となり、5日、小栗は東善寺を囲んだ東山道総督府指揮の三藩の兵に有無をいわさず捕縛されました。

そして翌6日朝、小栗は家臣3名と共に取調べもないまま水沼の烏川河原に引き出され、「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめしものなり」という無実の罪を着せられて、斬首されたのです。享年42。

3人の家臣も、また高崎で捕らわれた又一と家臣も処刑されました。小栗はもとより、彼らには何の罪もありません。罪人として首を打たれる時、果たして小栗はどんな心境であったのか、小栗本人にしか知る由はありませんが、たまらない気持ちになります。

明治38年(1905)の日本海海戦で勝利した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、自宅に小栗の子孫を招き、「日本海軍が勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ」と言って、感謝したといいます。小栗へのせめてものはなむけかもしれません。

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