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横須賀製鉄所なくして日本の近代化はなかった

2015年10月24日 公開
2023年10月04日 更新

『歴史街道』編集部


 

列強の「力の論理」と対峙するために

日露戦争における日本海海戦でバルチック艦隊に完勝した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、明治45年(1912)、自宅に小栗上野介の子孫・小栗又一を招待し、感謝の意を述べました。「日本海海戦でロシア艦隊を破ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」

幕府旗本で、勘定奉行や外国奉行などを歴任し、傾きかけた幕府の屋台骨を支えたことで知られる小栗上野介忠順〈ただまさ〉。勝海舟のライバル的存在で、維新のどさくさの中で罪もなく新政府軍に処刑されたことから、脚光を浴びることが少ない人物です。

しかし、その見識の高さはずば抜けており、ペリー来航以来、欧米列強の接近に直面して世間が騒ぐ中、これからの日本に求められるのはまず近代化を進めること。そのためには工業力を高める施設が必須であるという持論から、製鉄所建設を幕府に進言するのです。

その背景には、小栗が安政6年(1859)に日米修好通商条約批准のために訪れたアメリカで、ワシントン海軍造船所を見学し、蒸気機関を動力として、巨大な鉄製品が次々と加工されていく様子に衝撃と感銘を受けたことがありました。

「素晴らしい。この造船所のように蒸気機関を動力とし、鉄製品から軍艦までを総合的に建設できる製鉄所を、日本にも早急に建設しなければならない」。その思いを抱いて帰国した小栗は、幕府の財政が逼迫していることを承知の上で、製鉄所建設を進言しました。

当然ながら反対論が強く、小栗は批判の矢面に立たされます。ある幕臣は「費用をかけて造船所を作っても、完成した頃には幕府がどうなっているかわからない」という、幕府の先行きを悲観した意見をぶつけました。これに対し、小栗は答えます。

「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない。幕府のしたことが長く日本のためになるのであれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売家にしても、土蔵付売据えの方がよい」

製鉄所を土蔵に、傾きかけた幕府を売家になぞらえたわけですが、小栗が幕臣の枠を超えて、日本の将来を考えていたことがわかります。

文久元年(1861)、ロシア軍艦が対馬を占拠、略奪を働く事件が発生。当時、外国奉行であった小栗は、幕府より対馬に派遣され、ロシア兵の無断上陸を条約違反として艦長に厳しく抗議し、対馬藩主への謁見を求める艦長と対立しました。

小栗は「納得できぬというのであれば、それがしを撃たれよ」と命がけの交渉をしますが、ロシア艦は退去しようとせず、結局、イギリスが軍艦を動かしてロシアに抗議、退去させました。理よりも軍艦という「力の論理」が支配する列強に対峙するには、こちらも力をつけなくてはならない。小栗は製鉄所建設の決意を一層、強めたことでしょう。

元治元年(1864)、勘定奉行に就任した小栗は、製鉄所建設をいよいよ推進し、フランスと話を進めます。本来であればアメリカに相談したかったところですが、本国の南北戦争でそれどころではなく、ロシアは論外。イギリスはアヘン戦争の過去があり、オランダは消極的で、一方のフランスは幕府軍艦の修理依頼を完璧に果たした実績があったのです。

また、幕府軍艦修理の際、フランスとの橋渡し役を務めたのが、小栗が最も信頼する栗本鋤雲〈じょうん〉であったことも、後押しとなりました。小栗の相談を受けたフランス公使ロッシュは、上海にいた優秀な技師を来日させます。その人物が製鉄所建設の責任者となる、フランソワ・レオンス・ヴェルニーでした。

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