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横須賀製鉄所なくして日本の近代化はなかった

2015年10月24日 公開
2023年10月04日 更新

『歴史街道』編集部

日本の物づくりの原点

「昔、この地は人家僅かに三十余戸に過ぎない一漁村であったが、一たび造船所が設けられて僅か十余年の今日、かく隆盛の小都会となったのは、実に驚くべき開明の進歩」

これは明治16年(1883)頃の横須賀の様子を表現したものです。横須賀製鉄所(明治4年〈1871〉に横須賀造船所と改称) が建設されてから、急激に発展したことがわかります。

製鉄所建設が始まったのは、慶応元年(1865)。時に小栗39歳、ヴェルニー29歳。製鉄所建設地に横須賀を選んだのは、フランス人たちでした。水深が適し波が静かで、土の質も粘りがあってドック(船渠)建設に向いており、山が迫っているため強い風を防ぐことができるからでした。

建設費は240万ドルで、毎年60万ドルずつ、4年間支払う契約です。慶応4年(1868)の幕府から明治政府への引き継ぎの際、すでに158万ドルが支払い済みという記録が残ります。

ヴェルニーは横須賀で基礎の土木工事が行なわれている間にいったん帰国し、技術者と機械・工具類を調達。翌慶応2年(1866)、40数人の技術者とその家族計200人、及び必要な機材を携えて再来日し、製鉄所首長として本格的に建設を進めました。

製鉄所の主な施設を紹介すると、動力は蒸気機関で、鋳造所、製罐所、旋盤所、組立所などが並びます。一番の大工事はドックで、一号ドックの開削が始まったのは慶応3年(1863)。石造りのこのドックは明治4年に完成し、今も現役で使用されています。その東には造船を行なう船台もありました。

製綱所(ロープ工場)は300mに及ぶ長い建物で、建物の上部に時計塔があり、時間に合わせて仕事が行なわれ、日本に定時就労が根付くきっかけになったといわれます。またこの建物が、後の富岡製糸場の東西繭倉庫のモデルになっています。

さらに黌舎〈こうしゃ〉と呼ばれる職工学校が設けられ、近在の青少年を集めて数学とフランス語を中心に教え、施設の機械を使いこなせる職工として育成しました。卒業して製鉄所に勤めれば、一家を養える高給取りになれるとあって大変な人気で、黌舎に入るための予備校までありました。

製鉄所は建設開始の慶応元年から順次稼働して、4年後の明治2年(1869)にはドックを除く製鉄所の全施設がフル稼働を始めます。建設に尽力した小栗は前年に罪なく処刑され、その姿を見ることはできませんでしたが、製鉄所は明治25年(1892)まで外国船の修理も行ない、その順番待ちをする外国船が連なるほどの盛況ぶりでした。

この横須賀製鉄所で培われた技術が、日本の工業発展に大いに役立ち、やがて横須賀海軍工廠として多くの艦船を生み出すことになります。戦後の造船大国日本、日本人の物づくりの、まさに原点として位置づけられるものでしょう。

「横須賀製鉄所なくして日本の近代化はなかった」といっても過言ではなく、その背後には小栗やヴェルニーら、日本の将来を思う多くの人々の尽力があったのです。

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