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真田信繁は何のために戦ったのか

2016年01月09日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

真田信繁 歴史街道

「真田幸村」は間違いなのか?

本日は2月号「真田信繁 大敵に挑んだ『六文銭』の誇り」の内容にからめつつ、真田信繁が何のために大坂の陣を戦ったのかを、考えてみたいと思います。

まず今回の特集タイトル「真田信繁」について、「真田幸村ではないのか?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。実は一昨年に「真田信繁と冬の陣」という特集を組んだ際も、「信繁は幸村の兄弟ですか?」と真顔で尋ねられたことがあります。

最近こそ、大河ドラマ「真田丸」の主人公は真田幸村こと真田信繁です、とテレビでPRされたことで、信繁の名前が浸透し始めていますが、たとえば昨年に和歌山県の九度山町を訪れた際も、地元の方々はすべて幸村と呼び、信繁と言う方にはお目にかかれませんでした。

かく言う私も、まだ幸村の方がしっくりくるような気がします。「幸村と真田十勇士」、「大坂夏の陣と幸村最後の突撃」という具合に、幸村という響きに慣れ親しんでいるからでしょうね。

2月号の特集では河合敦先生にご解説頂いていますが、同時代史料に幸村という名は見当たらず、真田昌幸の次男の名は「信繁」と記載されています。ちなみに幼名は弁丸、通り名は源次郎、後に与えられた官職名は左衛門佐〈さえもんのすけ〉です。

従って史実に基づけば、真田信繁が正しいということになります。では、幸村は間違いかというと、一概にそうとはいえないのがややこしいところ。というのも、信州松代藩真田家の江戸時代の史料には、「幸村」と記されているからです。

幸村の名は、江戸時代初め(寛文12年〈1672〉)の軍記物『難波戦記』に登場するのが最初といわれ、以後、講談本などにも用いられて、その人気から広く流布し、ついには真田家の史料にもその名が記されるに至ったようです。

とはいえ、今年の大河ドラマをきっかけに、真田信繁の名が大いに浸透する可能性はあります。果たして幸村から信繁へと変わる記念すべき年となるのか、注目したいところです。

 

当時の人質は幹部候補生?

真田昌幸が上杉景勝の支援を得るため従属する際、信繁(当時は元服前なので弁丸)は人質として上杉家に送られました。人質というと、不自由な暮らしを強いられていたように想像しがちですが、戦国期は必ずしもそうではありません。

むしろ将来、主家を支える人材となるよう、文武にわたり教育が施されました。信繁の父・昌幸も武田家に人質として送られましたが、武田信玄の近習として多くの事を学び、結果、信玄を主人とも師とも仰ぐ、武田の重臣へと成長しています。いわば人質とは幹部候補生でもありました。

信繁もまた、人質の身ながら上杉景勝から知行を与えられており、いずれ上杉を支える重臣となることを期待されていた節が窺えます。おそらくは直江兼続にも接していたでしょう。

その後、昌幸の意向で信繁は、上杉家から豊臣家の人質へと転じます。信繁は秀吉のもとでも厚遇されていたようで、やがて奉行衆の石田三成や大谷吉継と出会い、親しく接するようになりました。

特に大谷吉継は、後にその娘(養女とも)を信繁が娶り、正室にしたとされますので、信繁にとって義理の父となる存在。深く親交し、信繁は吉継から多くのことを学んだはずです。

童門冬二先生は特集内において、信繁が三成や吉継との出会いで目を見開かされたのは、彼らが何を拠り所に働いているのかを知ったことではないかと指摘されます。すなわち彼らが目指しているのは、乱世を終息させる統一政権(豊臣政権)の確立でした。

そこにあるのは私利私欲ではなく、戦乱をなくすことで日の本の民が安心して暮らせるようにし、それによって国を富ませるという、大きな志であったはずです。統治者とは、領民の生活を守る存在でなければならない…父・昌幸が大事にしてきたことに通じ、さらに一段とスケールの大きな姿勢を、信繁は吉継らに見出したのかもしれません。

 

信繁は何のために戦ったのか

関ケ原合戦前夜、真田家が二つに割れたことはよく知られます。すなわち長男の信幸は徳川家康方の東軍に、昌幸と次男の信繁は石田三成方の西軍に分かれました。信幸の正妻は家康の養女(本多忠勝の娘)であり、信繁の正妻が大谷吉継の娘ですから、双方とも義理を果たそうとすれば、分かれるしかなかったともいえます。

また義理だけでなく、信繁にすれば、義父の大谷吉継や石田三成が懸命に作り上げた統一政権と乱世の終息への志を、徳川家康が私欲のためにぶち壊そうとするのを許しがたいという思いがあったのかもしれません。

そして昌幸・信繁父子は上田城に拠って、関ケ原に向かう途中の徳川秀忠軍を相手に散々に翻弄し、合戦に遅参させました。しかし、関ケ原では西軍が敗れ、吉継も三成も落命。昌幸・信繁父子は死罪になるところを辛うじて許され、紀州九度山に流されます。

以後、信繁は大坂の陣までの14年間、九度山で蟄居生活を送りました。蟄居生活11年で、父・昌幸は不遇のまま死去。一説に死の間際、昌幸は徳川と豊臣手切れの際、大坂に味方して徳川に勝つための策を信繁に語ったともいいます。父子ともに、今一度徳川と戦う気持ちは失っていませんでした。

そして慶長19年(1614)、豊臣家からの大坂入城の請いを受け、信繁は最後の戦いへと起ち上がるのです。では、信繁は何のために戦うのか。

真田本家は兄・信幸が継いでおり、次男の信繁は家のことを心配する必要はありません。いわばフリーの立場で、決断することができました。まず念頭にあったのは、父・昌幸から学んだ真田の兵法を、徳川相手に今一度示したいということでしょう。そこには無念の内に他界した父への思いもあったかもしれません。

一方、関ケ原で大谷吉継らの乱世の終息への志をぶち壊した家康が、再び豊臣家に難癖をつけて、無理やり大戦を始めようとしていることへの憤りもあったでしょう。まして豊臣家は信繁の旧主です。そんな旧主が助けを求めてきているのであれば、応えるのは武士として当然と考えたのかもしれません。

「またも私欲で大乱を策す家康に、戦場でただの一度も徳川に後れを取ったことのない真田の兵法のすべてをもって挑み、天下万民が注目する最後の大戦の場で、鉄槌を下す」。

信繁がそう考えても不思議ではない気がします。果たして大河ドラマでは、この辺はどう描かれるのか。こちらも楽しみにしたいところです。

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