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真田昌幸・信繁父子は信長と対面したか

2016年01月31日 公開

歴史街道編集部

 

『加沢記』にみる昌幸の動き

『加沢記』という史料があります。沼田真田藩の家臣で、祐筆を務めた加沢平次左衛門によって江戸時代初めに書かれた手記で、真田幸隆、昌幸、信幸三代を利根・吾妻の興亡をからめて、小田原征伐までの49年間を記したものです。

軍記物の範疇に入れられる場合もありますが、戦場経験のない加沢が、古老の話や資料を集めて書いたと思われ、比較的記録性が高いと評価されています。

昌幸が織田に臣従するくだりについても、『加沢記』に記述がありますので、まず紹介してみましょう。

天正10年(1582)3月11日に武田勝頼が自刃、武田家は滅亡。この時、岩櫃城にいた真田昌幸は、実はすでに織田と対戦するために、越後の上杉景勝と、小田原の北条氏の双方に、臣従を前提とした援軍要請を行なっていました。

3月12日付で、武蔵鉢形城主の北条氏邦(北条氏政の弟)が昌幸に宛てた手紙が現存しており、そこには「北条方に臣従するのであれば、援軍を出そう」という内容が記されています。

この手紙について、かつては、勝頼が自刃する前に北条と連絡を取っている昌幸を、武田を裏切っていたと見るむきもありましたが、実際は武田に対する援軍を要請した昌幸への、北条方からの返事というのが妥当なところでしょう。

一方、武田滅亡後、織田方からも素早く昌幸にアプローチしてきます。それが信長の息子・信忠の重臣菅谷九右衛門尉からの書状で、そこには「今度勝頼公没落、信州一国残らず降参せしめ候ところに、貴方籠城まことに以て神妙の至り、信忠公はじめ御感に入」とありました。

つまり、昌幸の武田家に対する忠誠心を認めた上での丁寧な臣従要請であり、決して高圧的なものではなかったのです。

そして昌幸は3月15日、矢沢らとともに信州高遠に陣を構えていた織田信忠のもとに出仕しました。『加沢記』には、次のように記されます。

「昌幸公の始、矢沢、祢津、芦田、室賀、三月十五日高遠へ出仕し給て人質を被出ける、昌幸公も御娘子を、被渡ける、人々本領安堵無相違の旨、追而信長公の御證文可進とて信忠公何れもへ御盃を賜り帰城せられ厳重の御儀式也(以下略)」

大河ドラマでは、昌幸・信繁父子は諏訪の法華寺で織田信長と対面することになっていましたが、『加沢記』には高遠へ出仕し、信忠と対面して盃を賜ったとあります。

実際、信長自身は3月14日に浪合(長野県下伊那郡阿智村)で勝頼の首を実検したといわれますので、翌日、高遠で昌幸らに対面したとはやや考えにくいでしょう。

また信長が諏訪の法華寺に入るのは3月19日とされますので、昌幸が高遠ではなく、諏訪の織田陣営に出向いたとしても、3月15日の日付とは合いません。ですから、昌幸・信繁がドラマのように信長と対面した可能性は低いということになりそうです。

ただ、『加沢記』にある「昌幸公も御娘子を」人質に出したという件は、年齢的に考えるとドラマで描かれたように、長女の村松殿(ドラマの松)が一番合うかもしれません。

信長は光秀を折檻したのか >

iyashi

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