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「歴史街道」3月号●真田昌幸と関東三国志

2016年02月04日 公開

歴史街道編集部

2月5日(金)発売の「歴史街道」3月号、総力特集は『北条、徳川、上杉の争いの中で…真田昌幸と関東三国志――知謀を武器に「小」が「大」に挑む』です。

「天正壬午〈てんしょうじんご〉の乱」という言葉をご存じでしょうか。あまり馴染みがないかも知れませんが、大河ドラマ『真田丸』では、前半の大きな山場として描かれることになっています。

天正10年(1582)3月の武田家滅亡、その3カ月後の6月に起こった本能寺の変による織田信長の横死により、甲斐・信濃の旧武田領や上野を統治していた織田家の家臣たちが命からがら上方へと脱出し、この地域は無主状態となりました。

この地をめぐって、周辺の強豪勢力である北条氏直、徳川家康、上杉景勝が、あたかも『三国志』のような三つ巴の争いが起こります。

戦国の武田信玄・上杉謙信・北条氏康の争いを、俗に「関東三国志」などと呼ぶ場合がありますが、まさにもう一つの関東三国志ともいうべき争乱状況でした。天正10年の干支が「壬午」であったことから、古くは「壬午ノ役」「壬午ノ合戦」などと呼ばれていましたが、明確な名称はありませんでした。

この争乱に、平成10年に発表した論文で「天正壬午の乱」という名称をつけたのが、『真田丸』の時代考証を担当されている平山優先生です。

天正壬午の乱は、北条、徳川、上杉にとって、勢力拡大のための重要な争いでした。しかし、この争乱で三大名を手玉にとり、信濃の小勢力から独立大名へと躍進したのが、真田昌幸でした。

平山先生は、「天正壬午の乱は、真田昌幸の智謀が最も発揮された争いだった」とおっしゃっています。今号では、天正10年の本能寺の変から、徳川・北条の和睦までの約半年間続いた天正壬午の乱と、その後も続いた昌幸と三強の手に汗握る駆け引きを描き出しています。

とはいえ、この当時の昌幸は、本領の小県に加えて上野の吾妻・沼田を領しているだけの、三強に比べれば小勢力でしかありませんでした。ではなぜ、三つ巴の戦いのキャスティングボートを握ることができたのでしょうか。

天正壬午の乱と、乱が終結した後にかけて、昌幸は帰属先を織田から上杉→北条→徳川→再び上杉へと目まぐるしく変え、最終的には豊臣秀吉に従属しました。その中で、信濃の領地を死守し、上野の沼田までを領地として確固たるものとします。

この時代の歴史を知る私たちからすれば、昌幸の計算と読みが適中して、三強を翻弄したように写ります。しかし、大勢力に独立を脅かされる小勢力の主である昌幸は、一つ一つの決断をわずかでも誤れば、一族が滅亡するという危機の中に置かれていました。

これは、現代においても、中小企業が大企業に対峙する時に起こり得ることかもしれません。いわば中小企業の社長である昌幸は、どうやって会社を生き残らせたのか。平山先生は今号の総論において、昌幸の強みを次のように説明しています。

「真田家伝来のゲリラ戦を得意とする戦術や、武田信玄の許で培った政治力や兵法などを駆使することで、敵の弱点を冷静に見抜き、常に自分の価値を相手に高く売りつけて “キーマン”として有利な状況を生み出すことこそが、昌幸の智謀の真骨頂だと思います」

まさに昌幸から、現代にも通じる「小」が「大」に勝つためのヒントを学ぶことができるのではないでしょうか。

今号には、大河ドラマ『真田丸』での真田昌幸(草刈正雄さん)を始め、徳川家康(内野聖陽さん)、北条氏政(高嶋政伸さん)、上杉景勝(遠藤憲一さん)の迫力あるスチール写真も多数掲載しています。『真田丸』の背景がより深く理解できる3月号、ぜひご一読ください。(立)

 

iyashi

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