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徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略

2016年02月16日 公開
2022年12月08日 更新

工藤章興(作家)

「歴史街道」2015年10月号より

上田城

 

父祖伝来の地は渡さぬ!真田昌幸、獰猛徳川勢を迎え撃つ

「徳川勢など何万騎押し寄せようと恐れるに足りず。家康は三方ケ原で大屋形様(信玄)に散々に打ち破られ、恐ろしさの余り、逃げ帰る馬上で糞を垂らした男ぞ」。不敵な相貌の昌幸が吠えると、将兵らがどっと沸わいた。

天正13年(1585)閏8月、徳川の精兵7000の侵攻に、上田城に拠る真田は2000。しかし、上田城と城下には、恐るべき仕掛けが幾重にも施されていた。

 

徳川勢、恐れるに足りず

「いかに徳川中納言(家康)といえども、理不尽極きわまりない命令じゃ。武威を恐れて泣き寝入りしては、真田の弓矢がすたる」

天正13年(1585)初秋。残暑に包まれた上田城。真田昌幸が一族と老臣を集めて評議している。天正壬午の乱のおり、家康と北条氏政・氏直父子が講和・同盟した結果、上野は北条氏が領することになり、家康は昌幸に沼田領を北条氏へ引き渡すように命じた。それにどう対応するかの最終評議である。

「沼田は中納言から拝領したものではない。真田家が武略をもって切り取った地だ。唯唯諾諾と引き渡すことはできぬ」

「されば、手切れでござるか」

「うむ。引き渡しを拒めば、中納言がこの城へ攻めかけてくるは必定なれば、弓矢、鉄砲をもって会釈するほかあるまい。ついては、汝らの命、わしにくれい」

家康は三河、遠江、駿河 、甲斐、南信濃で約150万石を領する巨大大名だが、決心の臍は鉄石よりも堅く、武力衝突も辞さない覚悟の昌幸の双眸からは、猛禽類のそれに似た勁烈な光が放たれている。

「はっ。一命はもとより、すべて殿の思し召しのままに」

首を横に振る者は皆無だった。主従、決死の覚悟である。

「徳川勢が何万騎押し寄せようとも、恐れるに足りずじゃ。中納言は三方ケ原で大御屋形様(武田信玄)に完膚なきまでに叩かれ、命からがら遁走する途中、恐怖のあまり馬上で脱糞した男ぞ」

昌幸の相貌に不敵な笑みが浮かんだ。家康との一戦は、長篠設楽原の戦いで討死にした長兄・信綱と次兄・昌輝の弔い合戦でもあり、闘魂はいやがうえにも燃え上がる。

しかも戦国最強武将の信玄に近侍してその戦略・戦術を余すところなく学び、自家薬籠中のものにしている昌幸は、坐して徳川軍の来攻を待っているような凡将ではなかった。

天正壬午の乱後に北信濃にまで勢力圏を拡大していた越後の上杉景勝に次男の信繁(幸村)を人質として差し出し、盟約を結んで加勢を依頼するとともに、家康を膝下に組み伏せての覇権奪取を目論む羽柴秀吉とも誼みを通じるべく書状を送る算段を整えた。稀世の智謀の将ならではの外交戦略である。

一方の家康は、案の定、沼田領引き渡しの峻拒と景勝への鞍替えに激怒し、上田城攻めの軍勢を催した。

鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世 、柴田康忠らの三河譜代衆に松平康国、諏訪頼忠、保科正直、小笠原信嶺ほかの信濃諸将、三枝昌吉や武川衆らの武田遺臣からなる派遣軍は総勢およそ7000(実数は10000以上?)を数える。

徳川勢雷発の飛報に接した上田城では迎撃準備が急がれる。支城の戸石城には嫡男の信幸以下800を入れ、矢沢城には従弟の矢沢頼康、丸子城には丸子三左衛門を配し、昌幸は400の将士とともに上田城に籠もった。だが、動員できた兵力は徳川勢の3割にも満たない2000ほどでしかない。

そこで、寡兵で大兵を邀撃する一策として、徳川勢の突撃路になると予想される染谷筋(大手筋)の所々に深さ1間(約1.8メートル)、幅1間ほどの堀切を掘り、あちこちに千鳥掛(互い違い)に結い上げた柵を設けた。

かくて迎えた閏8月1日、北国街道を進軍して信濃へ攻め込んだ徳川勢は千曲川南岸に台地をなす八重原に着陣。翌2日、千曲川を大屋付近で渡って神川東岸の蒼久保に進出。小休止する間に神川の浅瀬を探し、一気に押し渡るべく水飛沫を跳ね上げはじめた。

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