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第一次上田合戦と真田昌幸の戦術

2016年04月03日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

上杉への援軍要請と周到な読み

 

天正13年(1585)4月、甲府に赴いた徳川家康は、沼田領の引き渡しを真田昌幸に迫りますが、沼田城は真田として決して手放せない重要な城である上に、それに代わる替地も家康は示しませんでした。昌幸は、断固として拒否します。

昌幸はすでに上杉景勝と結んでおり、次男・信繁を上杉のもとに送っていました。7月15日には、真田と上杉は起請文を取り交わし正式に和議が成立、徳川と手切れとなります。

家康は真田討伐の準備を始め、8月20日、信濃の諸将に出陣命令を出し、敵を「根切り(根絶やし)」にするよう命じています。徳川の軍勢は7,000余り、一方の真田は2,000弱でした。

昌幸は同盟する上杉に援軍を求めますが、上杉も領内の新発田重家の叛乱に手を焼いており、軍勢を送る余裕がありません。上杉はやむを得ず、老人・若輩を兵として真田に送りました。真田領の曲尾付近に援軍が来た記録がありますが、おそらく虚空蔵山城に入ったのでしょう。

たとえ実際には戦力にならずとも、上田城にほど近い虚空蔵山城に、上杉家の旗が林立しているだけで、攻め込む徳川勢にとっては不気味な圧力になるはずでした。昌幸の援軍要請の狙いは、真田の背後に上杉軍が控えていると誇示することにあったのです。

天正13年8月末、徳川軍が上田に迫ります。その陣容は、鳥居元忠を筆頭に、大久保忠世、平岩親吉、柴田康忠ら徳川の家臣をはじめ、諏訪頼忠、保科弾正父子、下條頼安、知久頼氏、遠山一行、甲州先鋒衆、依田康国、岡部忠綱、三枝昌吉、松平右衛門、屋代秀正ら、甲信の国衆らを糾合した7,000でした。

おそらく昌幸は、敵の軍勢が徳川旗本で構成された一枚岩ではなく、各地の将の寄せ集めであることは見抜いていたでしょう。中には武田時代に昌幸の同僚であった者も含まれますし、同じ信濃国衆として、真田に対して同情的な者もいたはずです。

それならば、徳川の将が率いる部隊に打撃を与え、それらが退却を始めれば、戦意の低い者たちは、これ幸いと自分たちも退いていくだろう…。つまり一度手痛い目に遭わせれば、敵は戦意を喪失し、攻撃を継続できないと読んだのかもしれません。そのための仕掛けを、昌幸は上田城下に施しました。

 

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