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石田三成はなぜ「嫌われ役」となったのか

2016年06月06日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

石田三成
 

誤解されやすい男

いつの時代にも、誤解されやすい人はいます。たとえば、組織を円滑に運営するために嫌われ役、汚れ役を務めなければならない立場の人なども、それに当てはまるでしょう。

人間は誰でも、できれば周囲から嫌われたくないもの。しかし立場上、言いたくないことも言わなくてはならないこともあります。職務に忠実であろうとすればするほど、その人は「鬼の○○」などと呼ばれて、周囲から煙たがられてしまう。三成も、そんな部分があったかもしれません。

石田三成は永禄3年(1560)、近江国坂田郡石田村(現、滋賀県長浜市石田町)で石田正継の二男として生まれました。父・正継は浅井長政に仕えていたといわれます。三成が長浜城主時代の羽柴秀吉に仕えたのは、天正2年(1574)頃とみられています。

ほぼ同じ頃に秀吉に仕えたとみられる大谷吉継の存在が史料で確認できるのは、秀吉の三木城攻めの頃。一方の三成の名の初見は、天正11年(1583)の手紙(称名寺文書)で、賤ヶ岳合戦の直前の頃です。つまり、三成が中国攻めに参加していた記録は見つかっていないのですが、おそらくは大谷や加藤清正、福島正則らとともに加わっていたでしょう。

そんな三成が、豊臣政権の奉行衆の一員として手腕を発揮し始めるのは、賤ヶ岳合戦勝利の翌年、天正12(1584)頃からで、この年、検地の奉行を務めています。時に三成、25歳。真田信繁が人質として大坂城に入るのは翌年ですので、二人が顔を合わせたのは三成26歳、信繁19歳ということになります(異説あり)。

さて、奉行時代の三成の一派的なイメージは、「横柄で冷酷」というものかもしれません。三成を指して「へいくわい者(平壊。無遠慮の意)」という表現もよく知られています。ところが小和田哲男先生によると、三成と同時代の人物による史料で、「へいくわい者」のような三成の性格に言及した記録は見当たらないという興味深い指摘もあります。

とはいえ、三成が奉行として、秀吉の命令を忠実に実行する立場にあったのは事実。三成が職務に忠実であろうとすればするほど、私情を挟まず、冷静な対応をせざるを得なかったのでしょう。それが、冷たい対応、無遠慮な態度と見え、誤解されたのかもしれません。

もっとも同じ奉行でも、大谷吉継に対してはそんな評判はありませんから、世慣れた吉継と、真っ直ぐな三成の性格の違いが、こうした点に窺えるようにも感じます。

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