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キリシタン武将・明石掃部の実像

2016年11月23日 公開

歴史街道編集部

 

宇喜多秀家の義兄にあたる明石掃部

 

明石掃部頭全登。〈あかしかもんのかみ〉までは読めるとして、全登は何と読むのでしょう? 最近は〈てるずみ〉とふりがなを振るケースが多く、「真田丸」でもその説を採っています。他には〈たけのり〉〈なりとよ〉〈いえのり〉とふりがなを振ることもあります。

一方、名は守重〈もりしげ〉で、全登〈ぜんとう〉は号であるとする説もあり、全登は〈おしとう〉と読むという説もあります。面白いのは小川博毅氏の説で、ポルトガル語で義の人を意味する「ジュスト」が「ジェント」に転化して、全登という文字を当てたのではと指摘します。

もっとも普段は、真田信繁が左衛門佐〈さえもんのすけ〉と呼ばれたように、明石も官職名の掃部〈かもん〉で呼ばれていたでしょう。

明石掃部は備前明石氏の明石飛騨守行雄の嫡男とされます。明石飛騨守は宇喜多直家に仕えましたが、掃部がいつ、どこで生まれたのかは詳らかでありません。その名が初めて史料に現われるのは、天正10年(1582)のこと。

羽柴秀吉が中国大返しを行なう際に、味方の宇喜多家からも念のためにとった人質の中に、明石飛騨守の嫡男である掃部がいました。当時の掃部を「いまだ幼少」と記していますので、元服前の14歳以下の少年であったと思われます。

やがて秀吉が山崎の合戦で勝利すると、姫路城に留められていた掃部は宇喜多家に戻りました。その後、天正13年(1585)の四国攻めに、元服を済ませた青年武将の掃部は宇喜多家の一隊を率いて参陣、これが初陣であったでしょう。

父・明石行雄ははじめ備前の浦上家に仕えていましたが、宇喜多直家に内通して、直家の備前獲得に協力しました。直家はこれを喜び、明石家に宇喜多家中で最も高い禄高と、「客将」待遇を与えます。

これは行雄から掃部の代になっても続き、客将であるため家中での家格は、岡家、戸川家、長船家という仕置家老を務める家に次ぐ4番目でした。

また掃部は天正16年(1588)頃までには、結婚していたようです。相手は宇喜多直家の娘でした。実は掃部の母親は宇喜多直家の妹なので、従妹と結婚したことになります。つまり、後の宇喜多家当主・秀家にとって、掃部は義兄にあたりました。

その後、掃部は主君・宇喜多秀家とともに朝鮮出兵に参陣。碧蹄館〈ビョクチェグァン〉の激戦や幸州山城攻撃にも加わります。2年に及ぶ戦地での生活で、実戦での采配を我が物にしていったことと想像します。

文禄2年(1593)12月に朝鮮より帰国した掃部は、休む間もなく翌年からの伏見城普請などに従事し、文禄5年(1596)初めには、大坂城改修工事の監督を務めました。そしてこの大坂で、掃部の人生を変える出来事に遭遇します。

16世紀末、日本国内におけるキリスト教信者の数は30万人に及んでいました。宇喜多家はキリシタン武将の小西行長や黒田官兵衛らとも密接な関係があり、家中にキリスト教に入信する者も増えていきます。その中の一人に宇喜多左京亮〈さきょうのすけ〉がいました。

左京亮は宇喜多直家の弟の子ですので、直家の妹の子である掃部の従兄にあたります。この左京亮がキリスト教信者となり、直情径行な性格もあって、大坂で熱心に掃部に入信を勧めました。真面目な掃部は戒律が守れるかどうか自問し、熟考の末に受洗します。洗礼名はジョアンでした。なお、宇喜多左京亮は後に坂崎出羽守と名を改めます。

慶長元年(1597)には、長崎に送られるキリシタン二十六聖人が宇喜多領内を通過する際、掃部は自らその護送役を務めます。祈りを称えながら、苦しい道のりを歩む彼らの姿に、掃部は滂沱の涙を禁じ得ませんでした。

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