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開陽丸と榎本武揚

2017年03月26日 公開
2019年02月27日 更新

3月26日 This Day in History

榎本武揚

今日は何の日 慶応3年3月26日

徳川幕府の最新軍艦・開陽丸が横浜に到着

慶応3年3月26日(1867年4月30日)、徳川幕府がオランダに発注していた最新の軍艦開陽丸が横浜に到着しました。旧幕府海軍を率いる榎本艦隊の旗艦として活躍したことで知られます。

欧米列強の外圧を受ける中、幕府は文久2年(1862)、諸外国の軍艦に劣らない性能の軍艦の新造をオランダに発注しました。「最新の設計・設備を施し、蒸気機関推進で大砲は20門以上装備、排水量は3000t未満」という条件であったといわれます。

同年、幕府は15人の留学生をオランダに派遣し、操船や戦闘に関する知識、国際法、医学などを学ばせることにしました。そのメンバーには榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門、赤松大三郎、西周助、津田真一郎、林研海らが含まれています。

またこれら留学生の面倒をみたのは、かつて長崎海軍伝習所で教官を務めたカッテンディーケ海軍大佐(ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ)とメーデルフォールト軍医(ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト)でした。伝習所出身の者たちは再会を喜んだことでしょう。 建造はオランダのドルトレヒトにあるヒップス・エン・ゾーネン造船所で行なわれました。また備砲は、当時世界最高といわれたドイツのクルップ砲を採用。 艦名は幕府より留学生たちに考案が命じられ、榎本が考案した夜明け前という意味の「開陽(Voor lihter)」に決まったといわれます。

開陽が完成したのは慶応2年(1866)の6月。排水量2590t、最大長72.8m、400馬力の蒸気機関1基を備え、速力10ノット、大砲26門(うち18門は16cmクルップ砲)、後に9門追加、クルップ砲の海上試射距離は3900mで、オランダ海軍大尉ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝てる軍艦はない」と語りました。 開陽は慶応2年12月1日、日本に向けてオランダのブリッシンゲンを出航します。ディノー艦長以下109人の乗組員と、榎本、沢ら9人の留学生が乗り組んでいました。 開陽は大西洋を南下し、ブラジルのリオデジャネイロに寄った後、アフリカ南端を経てインド洋を渡ります。2月には11人の病人を出しながらも、3月29日にはジャワのアンボイナ(アンボン)に到着。補給後、4月30日(慶応3年3月26日)に横浜に入港、150日間の航海でした。 開陽と榎本たちを出迎えたのは、幕府軍艦奉行の勝海舟らでした。勝の計らいで榎本は軍艦頭並、沢は軍艦役並に任じられます。開陽は堂々たる幕府艦隊の旗艦となりました。

しかしその僅か半年後、京都で大政奉還が行なわれ、徳川幕府は瓦解します。当時、開陽は江戸湾にありましたが、江戸で乱暴狼藉を働いた薩摩の手の者が、薩摩藩の翔鳳丸に乗って江戸を脱出すると、開陽はこれを大坂まで追って攻撃を仕掛けましたが、逃げられました。 やむなく開陽が大坂湾に碇泊していたところ、鳥羽伏見の戦いが勃発。開陽は阿波沖で薩摩の翔鳳丸を攻撃して座礁させました。

しかし艦長の榎本武揚が大坂城に赴いている中、形勢不利と見た前将軍徳川慶喜が夜陰に乗じて乗り込み、副艦長の沢に命じて江戸へと向かわせました。旧幕府軍将兵を戦場に置き去りにしての将軍の逃亡劇に開陽は使われたのです。 別の船で品川に戻った榎本は、海軍副総裁に就任。4月に江戸無血開城が決まりますが、榎本は幕府艦隊の新政府への譲渡を拒否し、8月19日、開陽を旗艦とする回天、蟠竜、千代田形と4隻の輸送船を率いて品川沖を脱走します。榎本が総司令官を務めるこの艦隊は、榎本艦隊とも呼ばれました。

8月末に仙台に着いた艦隊は、会津方面で戦っていた旧幕府軍などを艦隊に乗せ、10月に仙台を出航。目指すのは北の蝦夷地でした。10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到達した榎本艦隊は、将兵を上陸させ、箱館戦争が始まることになります。

5日後に旧幕府軍が箱館市街と五稜郭を制圧すると、開陽は箱館港に入って祝砲を撃ちました。榎本は選挙で、蝦夷共和国総裁に選出されることになります。 続いて旧幕府軍は西の松前城を攻略、さらに北の江差に向かいました。開陽もその掩護のため、11月11日に箱館を出航して江差沖に向かい、14日より海上から艦砲射撃を浴びせます。 しかし松前兵はすでに逃亡しており、榎本は最低限の乗組員を艦に残して上陸、江差を占領しました。

ところが翌15日夜半より強風に見舞われ、開陽は堅い岩盤に碇が利かず座礁。 艦を預かる機関長の中島三郎助は、片舷の大砲を斉射してその反動で座礁から脱することを試みますがうまくいかず、開陽は榎本が陸上から悔しがる中、海中に没しました。

当時、世界最新鋭の開陽を失ったことは、幕府艦隊と新政府艦隊のパワーバランスを大いに変え、幕府艦隊は一転して劣勢に立たされることになります。ある意味、開陽の喪失が箱館戦争の流れを決したといってもよく、その運用が惜しまれるところです。

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