歴史街道 » 編集部コラム » 莫煩悩。北条時宗と蒙古襲来

莫煩悩。北条時宗と蒙古襲来

2017年04月04日 公開
2022年02月07日 更新

4月4日 This Day in History

鎌倉円覚寺
北条時宗が元寇の戦没者追悼のため無学祖元を招いて創建した鎌倉・円覚寺

 

今日は何の日 弘安7年4月4日

鎌倉幕府第8代執権・北条時宗没

弘安7年4月4日(1284年4月20日)、北条時宗が亡くなりました。鎌倉幕府八代執権で、文永・弘安の役という二度の元寇を退けた人物として知られます。

北鎌倉駅に降りると、目の前にあるのが円覚寺。時宗開基の寺です。開山は時宗が中国から招聘した無学祖元でした。 時宗は建長3年(1251)、執権を世襲する北条得宗家の、五代執権時頼の子として生まれました。八代執権の座についたのは、まだ18歳の時。その年、日本に服属を求める大国・元の国書が送られてきます。ユーラシア大陸全域に勢力を広げる大敵でした。時宗は御家人たちと方針を協議し、警固体制の強化などを手配りします。文永9年(1272)には、時宗が執権となったことを快く思わない庶兄の時輔らを、討たざるを得ない事件にも直面しています。

4万の元軍が大挙、九州に攻め寄せたのは、その2年後の文永11年、時宗24歳です(文永の役)。迎撃した日本軍は元軍の集団戦法や「てつはう」などの新兵器に苦戦しますが、暴風雨のため敵は撤退しました。その後も元からは降伏を勧める使節が何度か来ますが、時宗は処刑させています。元に対して、屈服する気はないという強い意思を示したのでしょう。その一方で、博多湾周辺に石塁を築き、再度の防衛線を戦う準備を進めました。

時宗が中国僧・無学祖元と出会うのは、この頃です。元軍の来襲が近いことを察した祖元は、時宗に「莫煩悩」という書を贈ります。「煩い悩むなかれ」。また「驀直去」という言葉も贈っています。「振り返らず、前へ向かって突き進め」という意味です。迷うことが多かったはずの若き執権にとって、この言葉は大いに励ましになったはずです。

元軍が4000艘・14万で再度攻め寄せたのは弘安4年(1281)、時宗31歳(弘安の役)。しかし石塁に拠って迎撃し続ける日本軍に元軍は苦戦し、さらにまたもや暴風雨が吹いて海上の元軍は壊滅しました。若き執権は辛くも、日本を守り抜いたのです。 翌年、時宗は元寇で命を落とした者を敵味方問わず弔うべく、円覚寺を建て、祖元を開山としました。さらに2年後、病床の時宗は祖元を呼んで出家すると、ほどなく永眠します。享年34。まるで役割を果たし終えたかのような最期でした。

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