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伊藤整一と戦艦大和の最期

2017年04月07日 公開
2022年06月27日 更新

4月7日 This Day in History

戦艦大和

今日は何の日 昭和20年(1945)4月7日

戦艦大和が沈没

昭和20年(1945)4月7日、戦艦大和が沈没し、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将も艦と運命をともにしました。今回は伊藤を中心に紹介してみます。

伊藤は明治23年(1890)、福岡県三池郡高田町(現、みやま市)に生まれました。海軍兵学校は39期。めったに喜怒哀楽を表にあらわすことがなく、柔和、清廉、寡黙な人柄で、ごく目立たない人物であったといわれます。

大正12年(1923)、海軍大学校21期を首席で卒業した頃から、メキメキと頭角をあらわし、その後、軍令部次長に至るまで、戦艦、重巡など5隻の艦長を務める海上勤務の一方、霞ヶ浦航空隊副長や第八戦隊司令官なども経て、軍政・軍令の双方で経験を積んでいきます。

昭和2年(1927)、少佐でアメリカに駐在。この時、ワシントンの大使館付武官であったのが、霞ヶ浦航空隊時代の上官だった山本五十六大佐でした。山本は伊藤を鍛えるとともに、信頼を強めます。山本のもとで伊藤は、アメリカの国情と国力を知りました。

伊藤がワシントンで筆頭補佐官を務めていた頃、アメリカ海軍情報課に赴任してきたレイモンド・スプルーアンスと知り合います。二人とも寡黙で控えめな性格でしたが、ウマが合ったらしく、親交を結びました。この時、スプルーアンス41歳、伊藤37歳。 スプルーアンスは、日本人に親しみと敬愛の念を抱くことができたのは伊藤中佐のおかげだと記しています。そんな二人が後に戦場で相まみえることになるとは、皮肉な運命でした。

帰国後、伊藤は海軍兵学校の教官兼生徒隊監事を務めます。アメリカを見聞してきた伊藤の経験が、教育に役立つという上層部の判断でした。伊藤は「不言実行」を通し、言葉でなく行動で範を示したといいます。時に40歳の伊藤が褌一本で、生徒たちとともに遠泳も行ないました。

その後、艦隊勤務などを経て、昭和16年(1941)9月に51歳で軍令部次長となります。実は軍令部次長就任前、連合艦隊司令長官であった山本五十六が伊藤を参謀長につけてほしいと及川海軍大臣に掛け合ったこともありました。それほど山本も信頼していたのです。

真珠湾攻撃が成功し、南方作戦の進捗に軍令部の参謀たちが戦争の行方を楽観視し始めると、伊藤は「アメリカがいっぺん始めたからには、そうはいかない」とアメリカを甘く見ることを強くたしなめたこともありました。

伊藤が軍令部次長から第二艦隊司令長官に転任したのは、昭和19年(1944)12月、レイテ沖海戦の後のことです。 伊藤は最後の艦隊長官候補で、いわば切り札として温存されていたともいわれますが、当時、すでに連合艦隊は末期的状況であり、戦艦大和を旗艦とし、第二水雷戦隊を麾下に置く第二艦隊がとり得る作戦はもはや限られていました。

昭和20年(1945)4月5日、大和座乗の伊藤のもとへ、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介が訪れます。 用件は「第二艦隊は4月6日内海を出撃し、沖縄嘉手納沖のアメリカ部隊に対して、水上攻撃を敢行せよ。攻撃は4月8日夜明けに予定、燃料は片道分とす。特攻作戦と承知ありたし」というものです。これを伊藤は峻拒します。「一機の航空機の掩護もなしに、沖縄突入が成功する可能性は極めて低い。その代償として7000人の将兵の命と、大和以下10隻の艦艇を失う犠牲を自分は認めるわけにはいかない」というものでした。

他の第二艦隊幹部も、連合艦隊からの沖縄作戦の命令に反対します。「我々は、命は惜しまぬ。だが帝国海軍の名を惜しむ。連合艦隊の最後の一戦が自殺行であることは、絶対に我慢がならぬ」。普段は冷静な駆逐艦朝霜艦長・杉原与四郎中佐までが怒りました。

窮した草鹿参謀長は会合をいったん切り上げ、時をおいて再開します。そして草鹿は言いづらそうに、こう言いました。「実は、これは連合艦隊からの正式な命令なのだ。連合艦隊としては、第二艦隊に一億総特攻の魁になってもらいたいのだ」。 こう言われては、もはや何をかいわんや。伊藤は「そうか。よし。それならばわかった」と短く答え、出撃が決まります。傍らにいた大和艦長・有賀幸作は、決まり悪そうな草鹿に対し、自分の太った腹をポンポンと叩き、にっこり笑います。「後は俺たちに任せておけ」の意味だったのでしょう。

4月6日、第二艦隊は徳山沖を出撃、沖縄を目指します。一方、この時、沖縄に展開するアメリカ艦隊の総指揮官は、伊藤と親しいスプルーアンスでした。 スプルーアンスは日本海軍最後の艦隊の指揮官が伊藤であることを知っていたかどうか。ただ大和以下の艦隊に対しスプルーアンスは、航空攻撃ではなく艦隊決戦で雌雄を決したいと考えていたといわれます。

しかし、第二艦隊はミッチャー中将率いる第58機動部隊に発見され、4月7日正午過ぎから3波にわたる航空攻撃を受けました。大和以下、第二艦隊は壮絶な戦いを繰り広げますが、戦艦大和は14時17分頃、沈没が避けられない状況となります。 伊藤は作戦の中止と、駆逐艦冬月に大和に横付けし、乗組員を救助することを命じ、「皆、ご苦労様でした。残念だったね」と言い残し、長官室に姿を消しました。その扉は二度と開くことはなかったのです。また有賀艦長も退艦を拒否し、大和と運命を共にしました。

14時23分、戦艦大和は九州坊ノ岬沖で沈没しました。伊藤は享年55。この作戦における戦死者は4037人といわれます。伊藤は家庭を重んじ、10歳年下の妻ちとせを大切にしていました。妻にあてた遺書にこうあります。

「親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心より感謝致し候。いとしき最愛のちとせ殿」

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