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江戸城と太田道灌~三州の安危は武の一州に系り、武の安危は公の一城に系る

2017年04月08日 公開

歴史街道編集部

太田道灌

今日は何の日 長禄元年4月8日

太田道灌が江戸城を築城

長禄元年4月8日(1457年5月1日)、太田道灌が武蔵国桜田郡荏原郷に江戸城を築いたといわれます。『徳川実紀』には、これが江戸城の始まりであると記されます。もともとこの地には、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、江戸氏が居館を築いていました。しかし関東の争乱の中で江戸氏が没落すると、扇谷上杉持朝の家臣・太田道灌が新たに城を築きます。

「三州の安危は武の一州に系り、武の安危は公の一城に系る」 これは文明8年(1476)に京都の詩僧・正宗龍統(しょうじゅうりゅうとう)が、道灌の居所である江戸城内静勝軒へ題した詩文です。 意味は「相模、武蔵、上野の安全は武蔵一国に委ねられ、武蔵の安全は一に道灌公の江戸城にかかっている」というものです。

当時、三州は長尾景春の乱に直面し、上杉軍の主力は、遠く上野国に後退していました。しかし、その中で道灌はただ一人、敵に包囲された武蔵国の江戸城にあって、敵方の動静を睨んでいたのです。

では、道灌が拠った江戸城とは、どんな城だったのでしょうか。その後の徳川家による大規模な改修があったため、道灌時代の江戸城の正確なことはわかりません。 しかし詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)の詩文集『梅花無尽蔵』などに江戸城の様子が記されており、そこからおおよそのことを窺うことができるといいます。

まず道灌時代の江戸城の位置は、徳川時代の近世江戸城の本丸あたりであったと推測されています。 家康が入る前の江戸城(後北条氏時代)には、本丸の他に二つの曲輪(くるわ)があり、徳川家康はこれらを一つにまとめて本丸にしました。 城の高さはおよそ30mあって、崖の上にそびえ、周囲を囲う垣は数十里に及びました。外側の堀には常に水がたたえられ、堀には橋が架けられていたといいます。 門の垣根は石垣で、頂上の城に通じる通路は石段です。左右に迂曲しながら上っていました。城の構造は子(ね)城(本城)、中城、外(と)城から成り、石門は25ヵ所にも及んだといいます。

この子城・中城・外城の三重構造は、家康が3つの曲輪を一つにまとめて本丸にしたという記録と合致しています。そして子城には南面に「静勝軒」と名付けられた館があり、これが道灌の居所でした。その背後には櫓が築かれていたともいいます。 城内には侍の居住する建物や、物見櫓、防御施設、兵糧庫、厩舎・武器庫などが建てられていました。弓場もあり、数百人の兵士が3隊に分かれて訓練を行なったといいます。 城の東側には平川が流れ、折れ曲がって南方の日比谷入江に注いでいました。そして北方からのびる台地は北の丸付近で舌状となり、本丸部分で終わっています。そのため本丸付近は、天然の要害というべき地形でした。

築城当初、江戸城が接する江戸湊は、江戸湾の中にある数ある湊のうちの一つに過ぎませんでした。しかし、道灌が在城する江戸城が南武蔵の中心地になるに及んで、周辺の湊とは比較にならないほどの繁栄を遂げることになります。 また城門の前には常設の市場が立ち、倉庫や店が建ち並びました。これが平河宿という城下町の始まりであったといわれます。

そして城は鎌倉街道下つ道に沿い、下つ道と古甲州道の合流する場所が、城の西の現在の半蔵門付近でした。つまり流通経路もしっかりと押さえて築かれていたのです。 こうして築かれた道灌の江戸城を徳川家が継承して大いに拡大発展させ、さらに皇居として現在に至っていることを思えば、道灌という人物の先見性、及び名将ぶりを改めて実感できるようにも思います。

iyashi

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