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今川仮名目録~今川氏親が制定した分国法

2017年04月14日 公開
2019年03月27日 更新

4月14日 This Day in History

駿河今川氏家紋

今日は何の日 大永6年4月14日

東国最古の分国法「今川仮名目録」が制定される

大永6年4月14日(1526年5月25日)、駿河国守護・今川氏親が「今川仮名目録」を制定しました。

今川氏親は文明3年(1471)、駿河国守護・今川義忠の長男に生まれました。幼名、龍王丸(たつおうまる)。通称、彦五郎。 母親の北川殿は、伊勢新九郎盛時(宗瑞)の妹(異説あり)であり、その縁が氏親の生涯に大きく影響することになります。 文明8年(1476)、父の義忠が遠江塩買(しょうかい)坂の戦いで討死すると、今川家中に内紛が起こりました。そして、当時6歳の龍王丸(氏親)が成人するまで、一族の小鹿範満(おしかのりみつ)が家督を代行することになります。

ところがその後、氏親が17歳になっても小鹿は家督を譲ろうとせず、むしろ氏親を圧迫します。この事態に北川殿は、京都で将軍足利義尚に仕えていた兄・伊勢盛時に援助を求め、盛時は駿河に下向すると、館を攻めて小鹿を討ち取りました。 かくして氏親は今川家7代の家督を相続し、晴れて今川館の主となります。そして盛時の功に報いて、興国寺城と富士下方の土地を与えました。明応2年(1493)、盛時は堀越公方の足利茶々丸を攻めて伊豆を奪取すると、翌々年には相模小田原を奪って、独立した戦国大名への道を進みます。 

一方、氏親は盛時の軍事的支援を得て、明応3年(1494)、24歳頃から遠江に侵攻。斯波氏と戦い、さらに文亀元年(1501)には遠江西部にまで勢力を広げて、三河を窺います。

氏親と盛時の協力関係はその後も続き、永正元年(1504)の武蔵立河原の戦いでは一緒に関東管領・上杉顕定軍と戦ってこれを破り、永正3年(1506)からの三河侵攻戦でもともに松平長親と戦いました。 永正2年(1505)頃には中御門宣胤の娘を正室に迎えます。彼女が氏輝、義元の母親となる寿桂尼でした。

その後、盛時が相模平定に専念すると、氏親は独力で遠江の斯波氏との戦いに勝利し、永正13年(1516)には引馬城(後の浜松城)の大河内氏を滅ぼして、遠江を平定。駿遠二国の大名となります。さらに甲斐の国人・大井氏に味方して甲斐に侵攻、守護の武田信虎とも戦いました。

氏親は駿府の整備にも取り組み、安倍金山の開発も進め、土地の一元支配を行なうための検地を実施。 さらには大永6年(1526)、分国法33ヵ条を制定しました。それが東国における最古の分国法「今川仮名目録」です。

氏親が「今川仮名目録」を定めるのは54歳の時、死ぬ2カ月前のことであったといわれます。分国法を制定した理由は、嫡男の氏輝がまだ14歳であったため、家臣の争いを防ぐ目的であったといわれますが、幕府への従属から離れる性格のものでした。

その内容は地頭と名主の関係、土地の境界争い、金銭貸借の利子の規定、さらには喧嘩盗賊取締など多岐にわたりました。中には夜の家屋侵入者は、妻問いを含め殺害しても罪としない、喧嘩をした者はいずれに理非があるにもかかわらず死罪とする、子供の喧嘩は問題とするに及ばない、といったものもあります。またその後、息子の義元が21カ条の追加を行なっています。

いずれにせよ守護大名であった今川氏が、幕法に拠らない独自の法律を定めたことは、今川氏の守護大名から戦国大名への変化を象徴するものといえます。なお武田氏もこれを参考にして、後に「甲州法度之次第」を定めました

大永6年4月14日、氏親は駿府の今川館で没しました。享年56。家督は長男の氏輝が継承しますが、氏輝はその後、24歳の若さで急死。その後は花倉の乱を経て、氏輝の弟・義元が登場することになります。

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